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1.紅蜘蛛の花 (4)

第三章 紅蜘蛛の花


「マイラ……」
 よそよそしい沈黙の後、エドワードは幾分落ち着いた声で呟いた。
「私は君をこのままにしておくつもりはない。いずれは……」
 その先を聞くのが怖かった。急速に動悸が襲ってくる。マイラは首を横に振って声を張り上げた。
「わたくしのことは、どうぞご心配なさらず。無事に婚約者が戦地から戻りましたら、結婚いたします」
 肩を掴むエドワードの手からふっと力が抜けた。彼は僅かに瞠目して唇を噛んでいる。虚を突かれたエドワードの表情を見て、彼がマイラの言葉を予想もしていなかったことを知った。心が騒ぎ出す前に、それを封じるように、マイラは言葉を続けた。
「ですから、無闇な戦いで散るわけにはいかないのです。神が貞操を守りながら死ぬことを許したとしても、未来の夫は許しません。わたくしは屈辱を忍んで、生きて、彼を迎えなければならないのです。他の未婚の娘たちも同じ気持ちのはずです。戦地から戻った殿方が、恋人が貞操を守る為に戦って死んだと聞いて、お喜びになるとは思えません。どのみち戦いに敗れれば、大公の兵士たちは私たちを殺す前に同じ仕打ちをするでしょう」
 沈黙を恐れるようにマイラは言葉を並べ立てたが、それも途切れてしまった。他に何か訴えることはないかと考える。だがエドワードへの苛立ちや焦燥、微かな恐れなど、その他の正体の分からない感情が渦巻いて、唇が震えるばかりだった。
 やがて、エドワードが静かに口を開いた。
「なるほど。そういう考えもあるか。私には婚約者などいたことがないから分からないが、そういうものなのかもしれないな。たとえ他の男を受け入れ、その子種を孕んでいる可能性があるとしても、生きていてくれるだけでありがたいのか」
 口調に皮肉が混じっている気がしたが、マイラと目を合わせた彼は、視線を緩めて微笑んだ。
「君が婚約していたとは知らなかった。……おめでとう」
 瞬間、胸を寂しく吹き抜けたものが何であったのか。マイラには分からなかった。彼女はエドワードから視線を逸らし、伏し目がちに呟いた。
「ありがとうございます。ご報告が遅れまして申し訳ございません」
「いや、気にするな。君の婚約など、私には関係のないことだ。わざわざ書簡で知らせてもらうほどのことではない」
 エドワードの声は穏やかで冷たい。突き放された気がして、心に滲んだ悲しみをこらえようと、マイラは微かに眉を寄せた。

 細い肩を押さえた手に、再びぐっと力がこめられる。マイラの体は鉄格子に押し付けられた。
「マイラ、鍵を持っているだろう? 私を牢の外に出してくれ」
 粗い格子の隙間から伸びた左腕が、マイラの背中を抱える。エドワードは微笑んでいたが、何故か彼女は一抹の恐怖を感じた。
「それはできませんと申し上げたはずです」
「では何故、こんなところに来た? 今、この牢も私の身柄も、大公軍が管理しているのだろう」
「それは……今夜はお祭りですので、せめてあなた様に葡萄酒でもと思って……」
 緊張に強張るマイラを見下ろし、エドワードは目を細めて破顔した。
「やはり優しいな、マイラは。私を哀れんでくれたわけか」
「そんなつもりでは……」
 マイラは慌てて頭を横に振った。笑顔のままでいるエドワードが不気味だ。かつての彼は、感情がそのまま表情に表れていたが、今はまるで仮面を張り付けているようだ。彼の胸に渦巻いているものを想像するのも怖かった。
「施しを与えているという優越に浸りに来たのだろう。落ちぶれた私に感謝されたかったのではないか。それともたかが葡萄酒で、私を言いくるめるよう、大公の将軍から言いつけられたか?」
 エドワードが何を言っているのか、マイラの脳にはすぐに浸透しなかった。ただ彼が、彼女の心遣いに嫌悪を抱いていることだけは分かる。彼の矜持を傷つけてしまったらしい。
「いいえ。私が勝手に考えたことです。奥方様も大公軍の司令官様も関係はありません」
「そうか? 既にお前は司令官と寝ているそうではないか」
 胸を突かれた。何故彼がそんなことまで知っているのだろう。唖然とするマイラの前で、エドワードは唇を歪めた。整った面差しが、冷ややかに変貌する。
「恥知らずめ。純潔を失った身で恋人と婚約するだけでは飽き足らず、占領軍の長に尻尾を振ってすり寄っていったわけか。戦地で戦うお前の恋人も、生き延びる為に何でもする淫売のような婚約者を持って、さぞ誇りだろうな」
 頭を殴られたような衝撃だった。いくら身分が異なり、かつての主人であったとしても、あまりにも痛烈な侮辱だ。
「エドワード様……あまりにも……」
「牢の鍵を出せ」弱々しいマイラの抗議をエドワードは乱暴に遮った。「ここから出ることができれば、夫人の望み通り、私はこの地を去る。お前たちのような娼婦どもがどうなろうと、もう知ったことではない」
「エドワード様……」
「副伯をはじめ、帰ってきた男たちが哀れだと私は思うがな。──お前の恋人は、お前が乙女でないことを知った上で婚約してくれたのか? なんと慈愛溢れることだ」
 マイラの背中に添えられていた手が、背骨を辿るようにして下へとおりていく。なだらかな腰のくびれは、まるで男に抱き寄せられる為に存在するかのようだ。温かい掌がそこを力強く撫でた。
 彼女が答えられずにいると、エドワードはゆっくりとマイラの腰を撫でながら続けた。
「それとも恥知らずのお前は、既に純潔でないことを隠して、恋人と婚約したのか。とんだ食わせ者だな。幼い頃は善良で心優しかったお前も、女になればやはり魔物だ」
 肩を掴んでいたエドワードの手は、マイラの首に回って、しっかりと彼女の細い体を抱き寄せた。左手が腰から尻へと滑る。細身の体格の割に、ほどよく肉づき、絶妙の曲線を描くそこをエドワードは乱暴な手つきで撫でた。
「エドワード様、何をなさるのですか」
 マイラの顔にうっすらと血が上る。彼女はかつての小さな主人の顔を見ることができず、視線を逸らしながら咎めたが、エドワードの答えは乾いていた。
「牢の鍵を探しているんだ。持っているのだろう」
 背中を抱いていた右手が、彼女の腰に巻かれた革帯を探る。彼の左手は柔らかい臀部を探るように撫で、揉んだ後に、長い服の裾をたくし上げ始めた。
「おやめになってください。わたくしは牢の鍵は持っておりません」
 マイラは身をよじり、格子の隙間から手を突き出して、エドワードの胸を押し返そうとした。しかし細身に見える彼の体はびくともしない。恐慌に襲われたマイラは肩を振ってエドワードの手を振りほどこうとしたが、それも果たせなかった。左手に持っていた水筒が床に落ちる。びしゃりと音を立てて、甘酸っぱい香りの飛沫が足元で跳ねるが、彼女はそれにすら気づかなかった。
「お前のような嘘つきの言うことなど信じられるか」
 ふくらはぎを夜の空気が撫でる。エドワードは、たくし上げられた服の裾から中へと入り込み、腰から膝上までを慎ましく覆った下穿きの上から、再び彼女の尻に触れた。二つの柔肉を握り、その柔らかさを乱暴に確かめるような手つきは、間違いなく彼の欲望を表している。
 丸めた背を向けて泣いていた小さな少年が、彼女に劣情を覚えているなんて。マイラの胸は得体の知れない感情に慄いた。必死に閉じてすり合わせた脚の間が、徐々に熱を帯びてくる。
 エドワードの息遣いがやや乱れた。右手で腰を抱き寄せられて、マイラは再び鉄格子に体を押し付けられた。額の骨に細い金属の棒が押し当てられて、錆の匂いが鼻をつく。この冷たい格子が無ければ、マイラの頼りない体は、成長したエドワードの腕の中に納められていたはずだ。格子の隙間から互いの腕を伸ばして触れ合うことはできても、体がぴたりと重なることはない。
 無慈悲な鉄格子は、マイラとエドワードの間を隔てるいくつもの妨げを暗示しているようだった。何もかも捨てて、このひとの胸にとびこめたらどんなにいいだろう。あるいは、こんな目の粗い格子ではなく、間に不動の分厚い鉄の板が立ち塞がって、触れ合うどころか見つめ合うこともできなければ、マイラの胸もこれほど切なく騒がないというのに。触れ合うこともできる。吐息すら感じるほどに近づけるのに、決して重なることはないのだ。

 エドワードの手が、下穿きの腰の紐を解き始めた。我に返ったマイラは、必死で彼の手から逃れようと、再びその体を押し退けた。
「おやめください。エドワード様」
 しかし応えすらなく、彼はたちどころに紐を解いて下穿きを雑にマイラの腰から落としてしまう。尻と局部を覆う小さな布地だけとなったマイラの尻を、熱い掌が再び撫で回した。力を込められるたび、マイラの華奢な体が軽く浮く。
「本当に下半身には隠し持っていないようだな」
「隠し持ってなどおりません。お願いです。お離しください」
 しかし今度もエドワードはマイラの声を無視して、腰を支えていた手を彼女の胸元に伸ばすと、突然服の上からその膨らみを握り締めた。男の容赦のない力に乳房を潰され、鈍い痛みが彼女を襲った。
 すぐにエドワードの手は、マイラの服の前を結び合わせている紐を解き始める。マイラは両手でそれを押し留めようとした。
「エドワード様、いけません。おやめになってください」
「やめて欲しいなら、素直に鍵を開けて、私をここから出すんだ」
 彼はマイラの手を乱暴に振り払った。遠い昔、夕闇に浸る紅い花畑の中で、彼に泣きながら手を振り払われ、叩かれたことを思い出した。
 彼女が追憶に捕らわれた僅かな時間で、エドワードは引きちぎるように彼女の服の紐をほどき、大きく広げた。鎖骨が美しく浮き出た白い胸元が露わになる。うっすらと脂肪を蓄えたそこは艶やかで、華奢ではあったが決して貧相ではない。
 青年の手は、肌を味わうように鎖骨の下をひと撫でした後、女の腰を両腕で押さえて、強引に華奢な体を逆向きにひねろうとした。反射的にマイラは抵抗したが、エドワードの腕力に敵わず、小さな悲鳴を上げただけで、後ろを向かされてしまう。格子の反対側の無機質な石壁には、床に置いた角灯が歪な光の輪を作り、その中にふたりの影が落ちていた。
 頑丈な革帯のように、マイラの胴にエドワードの腕が巻き付いている。マイラは再び身をよじって逃げ出そうとしたが、体が全く動かせない。牢の中に捕らわれている罪人に捕えられてしまった。


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1.紅蜘蛛の花 (3)

第三章 紅蜘蛛の花


 エドワードは水筒の口を開け、マイラが差し入れた葡萄酒を含んだ。一口、飲んだ後に息をつく。
「おいしい」
 酒蔵で寝かせておいた、何年も熟成している葡萄酒だ。客人が来た時や、祭りの際にしか振舞われない上等の物である。味も香りも濃く、甘みがある。エドワードは、再び水筒の中味を喉へ流し込んだ。その様子を盗み見しながら、マイラは伏し目がちに呟いた。
「今日は、夏至のお祭りですから……」
 春の到来、秋の収穫祭よりも、山が最も生命力に満ち溢れる夏至の祭りは、とりわけ盛大だった。駐留している大公の軍との関係は微妙だが、この日ばかりは、しがらみを忘れて、共に同朋として最も短い夜を謳歌する。副伯夫人は、そう考えたようだ。
「大公軍の連中も、君たちと一緒に飲み食いして楽しんでいるのか?」
 エドワードが、鉄格子の向こうから、皮肉っぽい声をかけてきた。
 彼は、副伯夫人が大公の軍を受け入れ、駐留させていることを快く思っていない。
 先月、西の集落の若者を連れて、城まで押しかけてきた挙げ句、エドワードは領民の前で、副伯夫人は大公軍の司令官と通じていると糾弾した。
 副伯夫人レジーナは、当然の如く激怒した。根も葉もない虚言である。無血開城して大公軍を受け入れる決断をするまでに、そしてその後も、レジーナがどれだけ懊悩したかは、マイラたちもよく知っている。
 女戦士であったレジーナは、言い分が真っ向からぶつかるエドワードと、決闘をもって決着をつけた。素朴な領民の前で弁を尽くすよりも、効果的で劇的な方法であった。
 敗北したエドワードは、夫人の慈悲により罰を免れ、城下を去った。
 しかし今月の初め、季節が完全に初夏に入った頃、大公の兵に、エドワードとその一党が捕らえられた。
 副伯夫人は、義理の従兄弟であるエドワードの身柄の引き渡しを求めたが、大公軍の司令官は、山内の工事の妨害をした罪人として彼を捕らえたと主張し、この古い牢屋にエドワードを閉じ込めてしまった。彼が連れていた供の者たちは、もっと手入れの悪い地下牢にまとめて押し込められている。
 マイラはエドワードとの面会を、夫人を通して司令官に頼んでいたが、近日中にという返事が返ってきたきり、音沙汰が無かった。しかし何度も夫人に頼み込むのは、マイラも気が引けた。
 領民を連れて城を訪れたエドワードは、城内の様々な事情を知っていた。大公軍の駐留はマイラが知らせたことであるが、夫人や侍女たちが司令官の寝所に上げられていること、そして若い侍女の一人が姿を消していることまでも、エドワードは声高に暴いて、レジーナの臆病と不貞を責めた。
 無論、マイラはそのような詳細な事情までは、エドワードに知らせていない。彼がどうやって知ったのかは、彼女にも謎であった。
 しかしレジーナは、言葉にこそしなかったものの、マイラがエドワードの情報源になっているのではと疑っているようであった。レジーナが正面切って問い詰めてこないので、マイラも弁解のしようがない。二人の間は、エドワードの来訪以降、ややぎこちなくなっていた。
 レジーナがマイラを疑うのも無理はないと思う。マイラ自身、自分の他にエドワードに城内の事情を漏らした人間がいるとは考えられなかった。エドワードの直接の知己は自分だけのはずだ。
 そんな状態で、何度もエドワードへの面会を頼むのは、無用な疑いを深めかねない。だが半月も幽閉されている彼の様子を伺い、祭りの最中に薄暗い牢で座っているしかない、かつての主人に、せめて葡萄酒でも飲ませたい。そう考えて、マイラは薬を扱う侍女のシェリルに頼み込み、危険を冒してこうして忍び込んできたのだった。

 マイラが押し黙っていると、エドワードは、短い溜め息を吐いて続けた。
「すまない。夫人が決めたことだからな。君に皮肉を言っても仕方がない」
「レジーナ様お一人の決定ではありません」気まずく視線を外したまま、マイラは小声で言った。「皆とよく話し合って決まったことです」
 エドワードが鼻白む気配が伝わってくる。一瞬後に、抑えた声が響いた。
「マイラ。君は、大公の軍の駐留を許せるのか?」
 動悸が襲ってくる。先月、領民の前で副伯の名代であるレジーナを批判したエドワードの姿が浮かんできた。マイラは緊張に強張りながら、やはり床に視線を落としたまま答えた。
「許したくはありません。でも、他に方法がありません。大公の軍は強大ですし、この城には、今守り手となる人間が誰もおりませんから」
 異教の地へ出征した領主からは、ここ二月ほど、便りが途切れているらしい。いつ戻るのか、どころか無事なのかさえ分からない。
 二千人もの大人数が駐留する生活は窮屈だ。士官が寝泊りする城内では、馴染みのない彼らに挨拶をし、婦人らしく道を譲らなければならない。
 略奪も乱暴もしないと司令官は告げたが、その約束は一部では守られていない。マイラの同僚の侍女が、兵士に強姦されたことがある。他にも同じような事件はあるかもしれない。
 それに彼らを率いる司令官からして、副伯夫人や侍女たちを寝所に呼び出し、夜伽をさせている。マイラ自身、二度、彼と同衾させられていた。乱暴されることこそ無いものの、マイラにとっては屈辱と苦痛のひとときでしかなかった。
 しかしそれは皆同じだ。軍への食糧を提供させられている領民たち、城内の改築にかり出される男たち、兵舎で兵士たちの世話をしている召使いたち。誰もが苦痛を分け合っている。しかしそれは、二千人の軍を相手に戦う損害と比較すれば、耐えられないことでは決してなかった。
「方法はある。傭兵を雇って時間を稼ぐ間、国王陛下の元に使いを出すなり、反対側の山裾の伯爵夫人に援軍を頼むこともできる」
 エドワードの毅然とした声が耳を打つと同時に、格子の隙間から腕が伸びて、マイラの肩をつかんだ。彼女は僅かに身を震わせて、エドワードを見上げた。翳った青灰色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。
「マイラ。逡巡するのも分かる。だが、このままでは事態は悪化する一方だ。善き神の信徒として、陛下の忠実な家臣として、私たちにはなすべきことがあるはずだ。大公の横暴を看過していてはいけない」
 肩をつかむ手に力がこもる。大きな掌は、華奢なマイラの肩の骨を簡単にその中に納めてしまう。
 いつの間に、この人はこんなに大きくなって、こんなに勇ましいことを言うようになったのだろう。
 魅入られたようにマイラはエドワードを見つめ返した。彼が見知らぬ青年のように見える。二年前に再会した時も、同じように感じた。あの時の出来事も夢か幻のようであった。いっそ本当に夢幻であれば良かったのに。
 目も逸らせない内に、エドワードの唇が動く。
「マイラ、お願いだ。私をここから出してほしい」

 もしかしたらと予想していたエドワードの訴えを、マイラは即座にかぶりを振って断った。
「できません」
「マイラ」掴まれた肩を引き寄せられる。エドワードの吐息が顔にかかり、葡萄酒の香りを感じた。「君まで、私がただ城主に成り代わるために、夫人を責めていると思っているのか」
「そうではありません。エドワード様のおっしゃることは、正しいと思っております」
 やや眦が吊り上がったエドワードを悲しく見つめながら、マイラは答えた。
「ですが、やはり無謀です。城内や城下に残っているのは、女子供とお年寄りだけなのです。武器を取って、二千人の兵士と戦うなど無理です」
 エドワードはレジーナとの決闘に敗れたが、無論それで夫人の決断に納得したわけではないのだろう。それは分かるが、彼が少しもレジーナの考えを理解しようとしてくれないことが、マイラにはやるせなかった。
「無理などと……。試みてみなければ分からないではないか」エドワードの涼やかな声が苛立ちに跳ねる。「副伯に直接お仕えする君たちが、誇りを忘れてどうするのだ。女性とて戦えないということは無いはずだ。寧ろ貞節を守るためにも、戦わなければならない時であるはずだ」
 貞節の一言がマイラを刺激した。素肌を司令官に撫でられ、体を開かされて彼を受け入れた屈辱がまざまざと蘇る。
 既に踏みにじられた貞節を命を賭けて守れといのだろうか。そのためになら、自分と他の人間たちの血を流すのも当然なのだろうか。
 マイラは領地が盗賊に襲われた時のことを覚えている。自警団に加わっていた男たちや傭兵たちは無論、子供や女も彼らに狙われたものは殺された。城壁の外にいくつもの死体が転がっていた時期もある。
 負傷者の手当てをした時も、鉄の塊で潰れて裂かれた皮膚、砕けた骨、肉を穿って食い込んだ矢尻を目の当たりにして、戦いのすさまじさ、惨さに芯から震える思いだった。そのたびに、傭兵や男たちと共に、自らも生傷をこさえながら戦い続ける同性のレジーナを尊敬したものだ。
「簡単におっしゃらないでください。私たちは女です」
 自分でも驚くほど、芯の強い声が喉から漏れた。エドワードに仕えていた頃には、彼にこんな激しい調子で反論するなど考えられなかったことだった。彼もマイラの剣幕に軽く目を見張る。
「力もありません。毎日毎日体を鍛えている男性の兵隊にどうやって敵うとおっしゃるのですか。それに子供を持つ母親もおります。彼女たちの夫は遠征に出かけています。もし、母親が死ぬようなことがあれば、子供たちはどうすればいいのですか。帰ってきた夫たちも、妻の死を知れば、途方に暮れるでしょう」
「分かっている」一気にまくしたてるマイラを、より強い語調でエドワードが遮った。「だが、母親ばかりではあるまい。未婚の娘たちもいるだろう。彼女たちは結婚前に、見知らぬ軍隊の男たちに汚される危険を冒すより、誇りを持って彼らと戦うことを選ぶ気概は無いのか。未婚のまま貞操を失えば、いずれにしても未来の夫に顔向けもできないではないか」
 彼はそこではっとしたように表情を変えて言葉を切った。瞳を潤ませているマイラを凝視する間、エドワードが何を考えたのか、マイラには分からなかった。
 床に置いた角灯の炎が揺らぎ、石壁に映ったふたりの影が歪に形を変える。

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1.紅蜘蛛の花 (2)

第三章 紅蜘蛛の花


 駆け戻った思い出から、一瞬で引き戻される。左手に下げた角灯の炎の揺らぎが、時間の流れを静かに語っていた。
 マイラは心臓を弾ませたまま、再び廊下を歩き始めた。一歩、二歩と近づく。右手の壁が途切れて、目の粗い、細い鉄格子が見えてくる。
 マイラは格子の前に来ると、明かりを肩の高さまで掲げた。
 長年勤めているが、牢に来たことは数えるほどしかない。記憶にあったよりも広かった。
 石の壁に冷ややかに囲まれた空間には囚人を慰めるように、マイラの頭くらいの高さに、人間の頭も通らないほどの小さな窓が開いていた。微かに夜の頼りない明かりが差し込んでくる。
 その光の筋を避けるように、牢屋の奥の暗がりで、湿った床に座り込んでいた人物がいた。膝を抱え込むようにして、背中を丸めている影だけが見える。マイラは、自分がまだ追憶の中にいるような錯覚を覚えた。彼は角灯を持ったマイラに気づいているだろう。こちらを見つめている気配はするものの、身じろぎもせず、声も立てない。
 いや、眠っているのだろうか。薄闇に包まれて、顔はよく見えなかった。
「エドワード様……」
 緊張に沸き立つ鼓動をこらえて、囁くように呼びかける。
 座り込んでいた影がゆっくりと動いた。思ったより確かな動作で立ち上がる。
「マイラ?」
 彼女が持つ、小さな光の輪の中に囚人が踏み込む。明るい茶色の髪、青が混じった灰色の瞳、父親に似て、精悍さには欠けるものの、品良くまとまった顔立ちは、幼い頃のままだ。
 だが背は伸びた。彼女の手を引いてちょこちょこと歩いていた彼は、いつの間にかマイラを見下ろしている。まだ体つきは細身ではあるが、それでも華奢なマイラよりは、ずっと肩幅がある。彼女の小さな主人は少年を通り越し、一人前の男になろうとしていた。
 こんな風に彼が立派な青年となり、妻を迎えて、その血を継いだ子供ができるまで、ずっと側にいてあげたかった。夢は思わぬ形で、そして決して望まないかたちで叶うものだ。
 二年前の夏、初めて成長した彼と再会した時の感銘が、胸に蘇った。
「マイラ、来てくれたの?」
 エドワードは明かりの中で、顔を綻ばせた。緊張と疲れに強張っていた表情が、温かい湯に浸かったように緩んでいる。昔と同じだ。彼が寛いだ表情を見せるのは、マイラの前だけだった。
 二年前に会った時より、また少し背が伸びたように見える。彼の姿から、子供の頃の面影――柔らかなふっくらした頬や、甲高い声、マイラがぎゅっと握りしめていた小さな手などが削り取られていき、彼女の知らない、年若い青年へと変貌しようとしていた。
 宵闇の空のような、青灰色の瞳から目を逸らし、マイラは革帯に括り付けてきた水筒を外した。
「これを……葡萄酒です」
 目の粗い格子の隙間から水筒を持った手を差し入れると、エドワードは僅かに目を輝かせて受け取った。捕えられて半月あまり。一日に一度、粗末な食事が与えられているようだが、酒など口にする機会も無かったに違いない。
「ありがとう」
 声変わりした低い声は、マイラにはまだ違和感がある。彼がこんなにするりと感謝の言葉を述べるのも、幼い頃には無かったことだ。
 微笑んだ顔は穏やかだったが、囚われの生活を続けていて、やや頬がこけていた。この牢は窓もあるし、エドワードが入れられるまでは、それなりに掃除もされて清潔に保たれていた。身体を拘束されているわけでもないので、囚人としては上待遇ではあるが、それでも半月も幽閉されていれば心身ともに衰弱してくるだろう。


 エドワードは、この山間にある副伯領の領主の従兄弟である。彼の父が、先代の領主の弟にあたる。
 彼らの一家は、この城よりも少し下った山地の一画で、かつての古い要塞を改築した屋敷に住んでいた。マイラはそこに仕える侍女を母として生まれ、幼い頃から年の近いエドワードの身の回りの世話と遊び相手を任されてきた。しかし九歳になったばかりの頃、彼女は母と共に領主の居城に移った。
 以降、マイラは名誉ある副伯の居城で、領主や領主の母に侍女として仕えて過ごしてきた。元々、マイラの母はこちらの城で生まれたらしい。親戚も多く、母は活き活きと働いていたが、それでも時折、昔の屋敷のことを思い出すのか、淋しそうだった。
 懐いていたエドワードと離されたマイラも、尚のこと淋しかったが、多忙な日々に埋もれていき、気難しい、小さな子供の姿は、時折思い出と共に温かく蘇るだけとなっていた。

 ところが今から四年ほど前、マイラは自分宛に一通の手紙を受け取った。城内と城下以外に知り合いが少ない彼女は、不思議に思いながらも手紙を開封して驚いた。エドワードからであったのだ。
 領主の居城に来てから、役人たちに読み書きを教えてもらっていたマイラは、美しい字で綴られた長い手紙を、夜明けまでかけて読み込んだ。
 マイラが去った後、エドワードの父、つまり現副伯の叔父と跡継ぎの長男が相次いで病に倒れ、期に乗じて、エドワードの母の生家の人間が、後見の名目で屋敷に入り込んだ。老練な母方の伯父は、瞬く間に召し使いたちを掌握し、寡婦となった実の妹――エドワードの母を修道院へ送り込んだ。
 次代の跡継ぎであった、エドワードのすぐ上の兄が、屋敷近くの森で、獣に食い殺されたのは、それからほどなくのことであった。
 その事件のあと、まだ成人する前のエドワードを、伯父は『安全のために』修道院に入れると告げた。聡い彼は、その修道院こそ、あらゆる意味で彼へ用意された墓場だと察知し、屋敷に残った少数の忠実な召し使いたちだけを連れ、修道院へ送られる途中に姿を消した。
 山の麓の町へと逃れたエドワードは、供の者に助けられて何とか暮らしている。手紙にはそう認められていた。その後、かつての暮らしを懐かしみ、子供の頃の彼の我侭を詫びるような言葉が長く連ねてあった。彼女の手を焼かせた小さな主人の、現在の惨めな境遇と彼の郷愁に思いを馳せ、マイラは手紙を読みながら、何度も涙をこぼした。
 領主である副伯に働きかけて、彼の伯父の行動を戒め、住まいを追い出されたエドワードを本来の家に戻せないだろうか。マイラはそう考えて、麓の町にエドワードに宛てて返事を送った。
 時間はかかったが、返事は届いた。既に寡夫であったエドワードの伯父は、屋敷に残ったエドワードの姉の夫となり──この地方では、伯父と姪の婚姻は禁忌とされていない──、正式に屋敷の主人に納まったという。修道院に送られていたエドワードの母も屋敷へと戻ったらしく、エドワードは現在のところ、争いを起こしてまでそれを覆すことを望んでいない。そうした主旨の返答だった。
 苛烈な気性のエドワードが、むざむざと屋敷を追い出されて、流浪の境遇に甘んじているとは、マイラには信じがたかったが、本人が望まないことを行っても仕方がない。だが、彼がどんな生活をしているのか、物乞いか、傭兵か、芸人か、考えるだけで哀れでならず、時折無事を知らせて欲しいと再び返信した。
 返答が来たのは、季節が移り変わる頃だった。エドワードは町を空けていることも多く、すぐに返事ができなかったことを詫びていた。
 その後も、何度か手紙のやりとりが続いた。お互いに現在のことはさほど語らず、昔の思い出などを短く綴って懐かしんだ。マイラは彼がただ無事であること、そしてまだ幼い頃に側に仕えていた自分を覚えていてくれることが嬉しかった。
 
 しかしそれからほどなく、修道院に棲みついた盗賊団が強大化し、領地は彼らの脅威にさらされることになった。城に出入りする者も減り、鳩小屋の鳩は、近隣の親戚筋などに援軍を頼む緊急用として使われることになった為、エドワードに手紙を届けることも容易ではなくなった。
 エドワードの生家、副伯の義理の叔母とその兄が治める家にも、盗賊団排除の協力を要請したが、彼らは古く頑丈な要塞である屋敷に篭って安全を保ち、主城に手勢を送ってくることは無かった。難攻不落の要塞である山間の城は、孤立無援であった。副伯は仕方なく麓の町に打診して傭兵や冒険者を雇った。副伯夫人であるレジーナは、雇われた傭兵の中の一人だ。
 エドワードたちは時折、この領地内の山地に来ていることもあると聞いていたので、マイラは彼の身が心配でならなかった。
 しかし無事に盗賊たちを壊滅させた後、見計らったようにエドワードから手紙が届いた。彼らはしばらくの間、行商に付いて山脈の東へ行っていたという。麓の町で、副伯領に居座る盗賊団の噂を耳にし、エドワードもマイラを案じて手紙を寄越したのだった。
 マイラが、主城と彼女自身の息災を伝える書簡を届けると、すぐにエドワードから返信が来た。
 無事で良かった。ひと目、会いたい。
 盗賊の脅威に晒されている間、留守にしていたとはいえ、全く加勢できなかったことを、エドワードは恥じているようだった。副伯の元に参じるつもりはなく、ただ密かに、短い時間でいいので、久しぶりにマイラの顔を見たい。そう告げていた。
 マイラは迷った末、盗賊が去った後の、誰も寄り付かない修道院跡に、エドワードを呼び出し、内密にそこへ出かけた。
 約十年ぶりの再会であった。ふたりは互いの成長に驚き、はにかみながらも、離れていた間のことを一晩かけて語り尽くした。


 以降も、エドワードは生家に戻ることもなく、副伯の元に身を寄せることもなく、麓と山地を放浪していたようだ。
 頻度を減らしながらも、手紙のやりとりは季節ごとくらいに続いたが、マイラは彼に会うことはなかった。
 突然の再会は、先月、遅春のことであった。

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1.紅蜘蛛の花 (1)

第三章 紅蜘蛛の花


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第三章

1.紅蜘蛛の花


 扉を叩いても返事は無い。取っ手を掴んで重い木戸をそっと引くと、小さく軋みながら入り口が開いた。鍵も閂もかかっていない。
「失礼します」
 不自然でないほどの小声で告げながら中に一歩踏み込んだ。心臓が弾む。
 しかし通路入り口の楢の椅子に座した男は、上半身を傍らの机の上に倒している。規則正しい鼾が聞こえていた。
「すみません」
 マイラが声を掛けても、男は肩を緩やかに上下させるほかは、全く動く気配もない。
 男が突っ伏している小机には、酒壷と空になった銅製の杯が置いてある。マイラがそっと酒壷を覗き込むと、半分近くまで飲み干されているのが見えた。大公軍の士官には教育が行き届いているようだが、牢番ともあろう任務の者が、随分と深酒をしたものだ。
 しかし今夜は致し方あるまい。一年に一度、最も昼が長い真夏の一日を祝う祭りなのだ。
 兵舎に寝泊まりしている兵士たちでさえ、今夜は食堂で深夜まで馳走を楽しんでいるというのに、運悪く牢番などに当たり、一人でこんな狭い小屋に座っているしかないとは、この士官には酷だろう。他の士官たちは、広間で副伯夫人が主催する宴を満喫しているのである。
 ふてくされているところに、侍女がこっそり酒を差し入れにくれば、疑いもせずに、それを慰めと思って飲み干すだろう。東の畑で取れる、重く深い味わいの上等の酒は、男性に特に好まれる。
 マイラに協力して葡萄酒を差し入れにきた侍女は、この場にはいない。万一、眠り薬を仕込んだことが露見しても、彼女に疑いがかからないように、酒を差し入れた後は一晩中広間にいて、多くの人目に触れるように振る舞っている。牢に用があるのはマイラだが、彼女は牢番の士官に姿を見られていない。二人が共犯だとさえ分からなければ、どちらにも疑いはかからないはずだ。
 無論マイラが、牢番が目覚める前にここを抜け出せばの話である。しかし、酒に仕込んだ薬は、相当強力であるらしい。滅多なことでは、夜明けまで牢番は目を覚まさないだろうと、彼女は言っていた。
(ありがとう、シェリル)
 ぐっすりと寝込んでいる士官を見下ろし、マイラはもう一度、彼女に心の中で礼を述べると、机の脇に無造作に掛けてある鍵束に手を伸ばした。
 音を立てないようにそれを取ろうとして、彼女はふと思い直した。マイラは牢内の人間に用があるが、鉄格子を開ける必要は無いはずだ。無論、格子を開けて中に入れば、罪人とより近くで話ができるだろうが、万が一、情に流されて彼を逃がすようなことにでもなれば、女主人に顔向けもできない。そしてマイラを信じて、頼みを聞いてくれたシェリルをも巻き込んでしまう。罪人は今、大公の軍の管理下にあるのだ。彼を逃がして、司令官の怒りを買えば、取り返しのつかないことになる。
 マイラは鍵束を取らず、持ってきた角灯を握り直すと、足音を立てないように、奥へと進んだ。鉄枠で補強された、分厚い扉がある。彼女は角灯を一度床に置き、頑丈そうな閂を両手で外した。
 体重をかけるようにして重い扉を押すと、蝶番が耳障りに軋む。華奢な彼女は何度か息をつき、苦心して自分が入れる隙間の分だけ、やっと扉を押し開けた。
 夜風をよけるために羽織ってきた肩掛けが、扉を開ける間に肩から滑り落ちてしまっていた。角灯と肩掛けを拾い上げ、マイラは扉をくぐって廊下の奥へと進んだ。
 牢のあるこの小屋は、城館の裏手、敷地の隅にある。小さいながら石造りの頑丈な建物だ。廊下に窓は無く、日の当たらない内部は、ややかび臭い。
 マイラは足音をひそめて進んだ。心は逸るのに、体が重い。一歩ごとに心臓の鼓動が高鳴り、僅かに呼吸すら乱れる。
 どんな顔で会えばいいのか。何を話せばいいのか。分からない。
 そして彼がどんな風に彼女を見るのだろうか。様々な想像だけが駆け巡る。自分が何に苛まれているのかも、よく分からなかった。
 牢の手前で、ついにマイラは足を止めた。心臓が弾んで息苦しい。これ以上進めない。
 軽く掲げた角灯は、廊下の突き当たりの黒ずんだ石壁を照らしている。その横手に鉄格子があるはずだ。ここからは見えないが、その奥に罪人が捕らわれているはずだ。しかし物音も声も息遣いも聞こえなかった。静寂が耳を覆う。
 引き返そうか。
 暗闇が重圧となってのしかかってくるようだ。角灯の光は弱々しかった。
 逡巡している時間は無い。訪ねるか、引き返すか。早く動かなければ。一年で最も昼が長い日の夜は最も短い。すぐに夜空は白み始める。
 だが角灯が照らす壁を見つめるマイラの思考は、追憶にけぶった。


**


 空は茜色に染まり、ところどころに漂う雲が、残照を照り返して輝いていた。夕映えは目が痛くなるほど眩しく、マイラは何故か恐ろしくなった。
 屋敷の裏手にある小高い丘は、背の高い樹木がほとんど生えていない。土が痩せていると言われるこの一帯は、古戦場であった。
 昔々、とても大きな戦があり、お屋敷は砦となった。敵の数は圧倒的で、高貴な方を守ろうとした地元の勇敢な人々は、ここで亡くなった。
 幼いマイラが耳にして理解していたのは、その程度だ。当時の彼女くらいの年齢の、十歳に満たないような女児さえ武器を手にして戦い、幼い命を散らしたという。その話を聞いて以来、この丘に来る度に、マイラは悲しくなって涙ぐんだ。夜になると、亡き人たちの魂が、ある時は生前の姿で、ある時は小さな光の塊となって、丘を漂うと言い伝えられていた。古の古戦場はある種の聖地とされながらも、すすんで近づく者は少なかった。
 しかし彼女の主人は、ひと気の少ないその小さな丘がお気に入りだった。樹木や潅木も生えない痩せた土には、当時のマイラの膝丈くらいの下草が生い茂っているばかりであったが、短い山地の夏が終わり、秋に変わる頃、あたり一面は、咲き乱れた紅い花に覆われた。
 まるで燃え盛る炎に包まれた戦場そのものだ。大地も空も、赤々と燃えて美しく輝いていた。
 腰まで覆うような高さの群生した花をかきわけ、マイラは彼女の主人を探した。花はできるだけ踏みたくないが、進むうち、いくつかを折って踏みつけてしまった。
 夕陽や血潮のように鮮やかに紅く染まった花には、毒があると聞かされていた。年老いた乳母は、この花は古戦場で散った死者たちの養分を吸って、毎年狂ったように咲くと、マイラや彼女の主人に語った。死者の無念を吸い上げているから、生きている人間には毒になるという。
 マイラはその話を聞いて、なおのことこの丘を恐れたが、彼女の主人は却って花の咲いている時期に丘に出かけたがった。

 風が吹いて、三つ編みにしたマイラの長い髪が揺れる。秋分はまだだが、この時期も夕暮れともなると、風は吹き降ろすように激しく、冷たい。早く主人を見つけなければ、風邪を引いてしまう。
 焦り始めたマイラは、主人の名を呼びながら、背伸びをして辺りを見回した。落日の光が眩しくて、長く目を開けていられないが、見た限りでは、彼女の主の姿は無かった。
(ここにはいないのかしら)
 しかし屋敷の中は、乳母たちが探している。マイラはもう少し外を探してみようと思い、肩掛けをしっかりと首に巻きつけて結ぶと、また花をかき分けて歩き出した。
 彼女の耳が低いすすり泣きを捉える。
 声のする方に目を向けると、赤い花々の隙間に、夕陽を照り返すような淡い色の髪が見えた。
 見つけた。
 マイラが足を速めると、花をよける音が聞こえたのか、すすり泣きは突然止んだ。マイラは丸まった背中に急ぎ足で近づく。小さなマイラの小さな主人は癇が強く、よく泣く幼子だったが、最近では泣いているところを他人に見られることをひどく嫌うようになった。
「こちらにいらっしゃったのですね」
 色合いは濃いが、匂いは淡い花をどけるようにして、彼のすぐ後ろに跪く。しかしマイラの柔らかな声を聞いても、彼女の主人は振り返ろうとしなかった。
「もう日も暮れます。早くお屋敷に戻らないと、お夕食に間に合いません」
「いやだ」
 十にも達していないマイラより、さらに三歳年下の少年は、振り返りもせずに、鼻にかかった湿った声だけを返してきた。
 彼は怒ったり悲しくなったりすると、蔵に閉じこもったり、この丘にやってきては一人でいつまでも座り込んでいた。マイラと同じ年頃の、侍従や侍女の見習いたちは、彼らの主人を大層扱いにくいと思っているようだった。一度おかんむりになると、話もしなくなってしまうからだ。
 しかしマイラは、彼が無言のまま全身で訴えていることが、いつもうっすらと分かるような気がして、小さな主人の気分が少しずつほどけるまで、辛抱強く傍についていることが度々あった。そのせいか、少年は側仕えの子供たちの誰よりも、時には乳母や実母よりも、マイラに心を許しているように見えた。
「どうか、そんなことをおっしゃらないでくださいませ。皆様、ご心配されています」
 少年の背後からもう一度穏やかに声をかけたが、答えは無かった。冷たさを増してきた涼風のせいか、嗚咽をこらえているのか、彼女の主人は時折小さく肩を震わせる。
 その小さく丸まった背中を幾度見てきただろうと、マイラは思った。夕暮れの丘や蔵の中で、いじけて背を向けてしまう少年が心を開くのを、マイラは後ろで待ち続けた。しかし、もう主人の背中を見守ることもない。
「さ、お風邪を引かないうちに、お屋敷に戻りましょう」声を詰まらせそうになりながら、彼女は再び口を開いた。「マイラのお願いも最後です」
「いやだ……」
 彼女の主人は激しく首を振った。答える声は静かな嗚咽に歪み、鼻をすする音が続いた。
 マイラは彼にいざり寄り、前から顔を覗き込んだ。少年はそうされることをひどく嫌うが、放ってはおけなかったのだ。
 案の定、彼の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。大きな灰青色の瞳からは、雫となった涙が絶え間なく溢れている。
 屋敷の人々だけでなく彼の肉親たちまで、少年は癇が強いと思っているようだが、彼は喜怒哀楽が激しくて、繊細なだけなのだ。自分だけが誰も知らない主人の一部を理解している気がして、マイラは彼が愛しくて仕方がなかった。できることならこのまま側に仕えて、彼が成人し、美しい花嫁をもらうまで大切に見守りたかった。いずれは彼の子供を乳母として面倒を見られる日がくればいいと、九歳のマイラは自分の幸せは二の次に、早くもそんなことを考えていた。彼の子供も、きっと彼に似て扱いづらいに違いない。だからマイラが世話をしてあげるのだ。
 しかし、それは叶わないこととなった。明日、マイラは屋敷を出る。山の上の、いつも見上げている本家の立派な城に仕えることになったのだ。マイラの母が、長年主人に嘆願し続けて、やっと叶ったことであったらしい。
 本家に住むのはこの地方の領主である。そこに仕えれば、今より着る物や食べ物も良くなるはずだ。母はそう考えていたのだろう。
 マイラは現在の生活に満足していた。周囲の人は短気だったり、陰湿だったり、意地悪だったり、人間らしい欠点もあったが、それはマイラも同じである。彼らは概ね親切で善良だった。何より、彼女の気難しい主人が、マイラがいなくなってしまった後、誰に懐けるのか。すぐに癇癪を起こす彼に、辛抱強いマイラ以外の遊び相手はいるのか。心配でたまらなかった。
 マイラは母に、この屋敷に自分だけでも残りたいと告げたが、頑として受け入れられなかった。
『本家にお仕えするなんて大変名誉なことなのよ。私が何度も旦那様にお願いして、やっと本家への紹介状を書いていただけたの』
 恩着せがましく聞こえる母の言に、マイラが俯いて不満を示すと、母は床に膝をついてマイラの顔を覗き込んだ。
『あなた一人を置いていけるわけないでしょう。本家に行けば、使用人たちも多いから、もう少しゆとりをもってお仕事ができるし、素敵な殿方の目に留まる機会も出てくるわ。あなたももうじき年頃ですもの』
 母は一見穏やかに見えるが、野心と情熱を心に隠し持っている女性であった。
 マイラに父はいない。彼女が物心つく前に亡くなった、屋敷の以前の執事が父親であったという。執事と侍女の一人が関係を持って子を為すなど、通常は許されることではないが、寛大な屋敷の主はマイラの母の過ちを許し、母娘を引き続き侍女として置いていた。
 私生児として、マイラも見習いの子供たちにからかわれることが少なくなかったが、母はもっと肩身が狭かっただろう。本家へ移る機会があるのなら、とびつくのも当然だと思えた。
 あなたは幸せな結婚をしてちょうだい。
 マイラがまだ愛も恋も知らない幼少の頃から、母は繰り返し囁いてきた。
 しかし九歳のマイラには、男性と寄り添うことも、愛し愛されることも、まだ現実的ではない。生真面目な彼女は、同じ年頃のませた少女たちが、少年たちについて噂話に花を咲かせるのを横目に、いつも翌日の仕事のことや、彼女の小さな主人に対して思いを巡らせていることが多かった。

「あなた様がお屋敷に戻らないと、マイラも戻れません」
 膝を抱えている少年の手を取り、マイラは嘆願するように呟いた。小さな丸い手はとても温かい。それは何度も涙を拭ったためにほんのりと湿っていた。
「じゃあ、僕はずっと戻らない。マイラとここにいる」
 おとなしくマイラに手を握られたまま、彼女の主人は両膝の間に顔を埋めて、くぐもった声を上げた。
 彼女は痛々しく少年を見遣り、ふと周りを見回した。屋敷の裏手の丘は、やや突き出した崖のようになっており、木々が無いせいで見晴らしが良い。赤々と染まった空がとても広く見えた。そこから下に繋がる大地は、同じ色の花で埋め尽くされている。花咲く初秋の時期だけでなく、緑匂う春や夏、枯れた茶色の地面を雪が覆い隠す冬。年中、マイラと少年は、この丘で遊んだ。乳母は他の侍従見習いなども同行させたがったが、少年はそれを嫌がり、無理につかせた子供たちに毛虫をけしかけたり、木の枝で叩いたりして、泣かせて追い払ってしまった。
 マイラはこの丘がそれほど好きではなかったが、小さな少年と過ごしてきた時間の長さに思いを馳せ、まるで火を放たれたように、赤い花が一面に咲く野原を見つめた。
「僕ずっとここにいる」
 少年はゆがんだ声で、再び弱々しく言った。
「僕が戻らなかったら、マイラも戻れないっていうなら、僕ずっとここにいる」
 またわがままを。
 頑なに動こうとせず、涙が止まっても、まだ顔を伏せたままでいる主人に、こっそり溜め息をつきながら、マイラもまた涙が出そうになった。彼女をはじめ、屋敷の使用人たちの手を焼かせる小さな暴君。しかし彼女は、やっと自分にだけ懐いてくれた少年に、もう少しだけ、いや、できるならもっと長くついていてあげたかった。
 燃え上がる太陽は山々の彼方に沈み、残る光も宵闇に侵食されていく。夜が来る。
 このままでは夜風に冷やされて、少年は本当に風邪を引いてしまう。
「お願いです。どうか、マイラと一緒に、お屋敷にお戻りください」
「いやだ。マイラが行かないって約束するまで、ここにいる」
 少年は頑固だった。明るい色の髪を照らすのは、いつの間にか空高くに上っており、日没と共に輝きを増した上弦の月だ。紅い花は闇色が混ざって、細長い花びらが蜘蛛の脚のように見える。

「申し訳ございません」
 長いこと主人の前で跪いていたマイラは、ゆっくりと腰を上げた。膝から下に強烈な痺れが下りていく。
「私もできることなら、ずっとお側にいたいのですが……」
 少年は顔も上げずに沈黙していた。小さな形の良い頭を見下ろし、マイラはどもりながら呟いた。
「あの、お風邪を引きます。すぐに人を呼んできますから、ここから動かないで下さいませ」
 少年がマイラを振り仰ぐ。宵闇と同じ色の瞳が、溜まった涙できらきらと光っていた。あどけなく、無防備な視線に貫かれ、マイラは動けなくなった。呼吸も忘れた。
 一瞬あと、少年は癇癪を爆発させた。
「なんだよ。お前は僕がいるから、この家でうまくやっていけるんだ! 他の家に行ったって、のろまのお前なんか役立たずだ」
 激高したマイラの主人の瞳からは、感情の高ぶりに合わせて、再び涙が流れ出していた。
「お前は僕の世話しかできないんだ。それだけやっていればいいんだ!」
 少年が手の甲で乱暴に目元を拭うと、彼の声は急激にしぼんだ。嗚咽を上げ、鼻をすする少年を前にして、まばたきした拍子にマイラの目からも涙が溢れた。それにに気づいたのか、そうでないのか、彼女の小さな暴君は弱々しい声で続けた。
「マイラ……。勤めが厳しいなら、僕がばあやに言ってあげる。他の仕事しなくていいように、父上にも言ってあげるから。もっときれいな服を出して、僕と同じ物食べられるようにするから」
 だから行かないで。
 食いしばった歯の間から漏れたのは、鳥の鳴き声のような細い嗚咽だけだったが、声にならないその言葉をマイラは確かに聞いた気がした。
「申し訳ございません。私もずっとお側にいたいのですが……」
 少年と向かい合い、はらはらと涙を零しながらマイラも呟いた。この繊細で賢い少年が、どんな青年に成長するか、この目で見守って支えてあげたかった。
「でも、母とご主人様が決めてしまったことなのです。私はまだ子供ですし、一人でこちらに残るのこともできないので……」
「いやだ、いやだ! 僕、絶対動かない。マイラがお城に行くなら、僕ずっとここにいる。死んだってかまうもんか」
 少年はいくつもの花を下敷きにして地面に座ったまま、体を揺すって喚いた。いよいよ手がつけられなくなってきてしまった。
 灰色の雲がたなびき、月を半分覆う。既に夜だ。湿気を含んだ風が吹き、マイラの長い髪をなぶった。雨が降ってくるかもしれない。
「お願いです」涙声でマイラはもう一度、小さな主人に懇願した。「どうか、私と一緒にお家へお帰りください」
「いやだー!」
 少年を立たせようと、マイラはそっと彼の腕に手をかけたが、激しく振り払われ、ついでに手の甲をぴしゃりとはたかれた。
 どうして最後の最後くらい、言うことを聞いてくれないのだろう。
 マイラは悲しい気持ちで、もはや感情を抑えることもせずに号泣する小さな主人を見下ろしていた。しかし泣いている彼は、マイラよりもずっと悲しいに違いない。
「すぐに戻ってまいります。どうか、こちらで動かずにお待ちくださいね」
 彼女の声を聞くまいとするように、少年はますます泣き声を張り上げたが、マイラは素早く身を翻すと、服の裾を持ち上げて屋敷へと駆け戻った。月が出ているうちに、屋敷から大人を連れてきて、力ずくで少年を連れ戻さないと、依怙地になった彼は、本当に一晩中でもあの丘にい続けるだろう。初秋とはいえ夜は冷える。雨でも降ろうものなら、肺炎を起こしてしまいかねない。
 行かないでという、とうとう聞くことはなかった少年の声が、赤い花を蹴散らして走るマイラを追ってくる気がした。彼女も涙が溢れて止まらなかった。

 その後、マイラは乳母に事情を知らせて、乳母と下男、少年の兄を伴って丘へと戻った。
 同じ場所で泣いていた少年は、マイラ以外の人間の姿を認めると、唇を噛みしめて泣き声を抑えようとした。
 必死に抵抗する彼を兄が叱りつけ、乳母が宥め、下男が少年を無理矢理抱えて、彼らは屋敷へと戻った。帰り道の途中、流れてきた雲に月はすっかり覆われ、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

 翌日の早くに、マイラは母と共に荷物をまとめて、山の上の城へと出発した。
 彼女を可愛がっていた乳母が、少年の手を引いて見送りにきてくれた。彼の真っ赤に泣きはらした目は、しかしもう涙を浮かべることはなかった。彼女の主人だった少年は、憎悪に燃える瞳でマイラを睨み上げて言った。
「お前なんか、どこへでも行っちゃえばいいんだ! もう二度と戻ってくるな」
「まあまあ、坊ちゃま……」
 乳母が慌てて宥めたが、少年はその手を振り払って、屋敷へと走り去っていった。
 彼女が子供時代の彼を見たのは、その姿が最後であった。

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15.星の道 (4)

第二章 千の目


 ロデリックの溜め息が、シェリルの髪を微かにそよがせた。彼女はそれで初めて、自分が俯いていること、そして彼に思ったより近づいていることに気づいた。顔を上げ、さりげなく半歩下がる。 
 もう一度視線が絡むと、彼は微笑んだ。体ごとシェリルを向いていたロデリックは、再び背中を城壁に預ける。
「たとえ話なんだけどね」彼の澄んだ声は大きくはないが、よく響いた。「君が、すごく重要で静粛な儀式に出てるとするでしょ」    
 まったく繋がりがない話のように聞こえるが、シェリルは黙って聞いていた。
「そこで、君の隣にいた侍女が、君の脇の下こちょばして、君がゲラゲラ笑っちゃって、儀式が台無しになったとしたら……。君の女主人は笑っちゃった君と、大事な儀式だって知ってて君をくすぐった侍女と、どっちを叱ると思う?」
「そりゃ、くすぐった方だよ」
 レジーナをそれほど融通の利かない、頭の固い主人だと言いたいのだろうか。憮然としながらシェリルは答えた。
 ロデリックは城壁に肘をつき、再びシェリルに体を向けた。星明りの下で、彼が瞳を細めて微笑むのが見える。
「でしょ? 同じことだと思うんだよね」
「なにが?」
 シェリルが聞き返すと、彼は瞬きをはさんで答えた。
「くすぐったいのも、気持ちいいのも、頭でどうにもできないって点じゃ同じだよ。頭ではこんなヤツと思っても、体は勝手に気持ちよくなっちゃったりするのは、しょーがないんじゃない。僕ら男だってよくあるよ。女の人だって同じでしょ。
 女の人が気持ちよくなっちゃったら、強姦が成り立たないってことはないよ。望んでないことには変わりないんだから。だから別に、兵士にヤられて君が気持ちよくなったとしても、君はそいつに怒っていいんだよ。周りにも恥じることない。君は全然悪くないと思うよ。男に触られるのが嬉しいか、屈辱かってのは、君の体じゃなくて、君の意志が決めることだ」
 凝り固まっていた不愉快な塊が、するすると解きほぐされていく。天啓のようだった。
 もしかすると、頭のどこかで既に分かっていたのかもしれない。でも自分の内側からいくら叫んでも、聞き入れることができなかった。他人に告げられなければ、決して納得できないことだった。
 グレンも同じことを言ったことがあるが、彼は理由までは語らなかった。物事の表裏と真実を、もはや本能的に探ろうとしてしまうシェリルには、所以ない言葉はどんなに深く心に沁みても、納得することはできなかった。

「それじゃ、あなたやグレン様に抱かれたことも、あたしが強姦だって思えば、そういうことなの?」
 とても清々しい気持ちだったのに、シェリルはそれを表には出さず、皮肉っぽく言った。
「そうだねえ」ロデリックの笑みにも皮肉が混じる。「思ったところで、相手をどうにかできるかってのは、別のお話だけどね」
 泣きたいような気持ちで、彼女は苦く笑った。
 心は軽かった。他人を憎むより、自分を疎んで憎むのはずっと重く、苦しい。重石が取れたようだった。
 笑顔を見せすぎないよう、唇を噛んだまま、シェリルは瞳だけでロデリックに笑いかけた。彼も唇の端を吊り上げる。
 静かに持ち上がった彼の右手は、所在なげにゆっくりと落ちた。
 かつて、何度もシェリルの髪を撫で、肩を抱いてくれたその腕は、もう彼女だけのものではない。彼女の心が、彼のものだけでないように。
 言葉もなく、少しの間見つめあったあと、ロデリックは城壁から体を離して姿勢を正し、外套を羽織り直した。
「冷えてきたね。──先に戻ってるよ」
 シェリルが頷くのを見ることもなく、彼は踵を返した。
 追うことはもちろん、声をかけることもなく、シェリルはただその後姿を目で追った。


 十八歳の頃、ロデリックは一人の少女に出会った。
 当時の彼は、犯罪まがいの荒事を含めた、あらゆる仕事を引き受けて金を稼ぐ便利屋だった。自由で厳しい生活だった。
 彼が出会った少女は、同じような何でも屋ではあったが、傭兵に近い、冒険者と呼ばれる人種だった。彼女は決して強くはなかったが、友人たちと手を取り合い、世の荒波を乗り越えているように見えた。
 ふとしたことがきっかけで、彼女はロデリックに関心を寄せるようになった。彼も抱くと素直に喜ぶ彼女を次第に愛しく思っていった。
 だが結局、彼は重たくなった彼女の手を離した。東から、この辺境に渡ってきた時の話だ。彼女が強くないことは知っていたが、当時の彼も、彼女を支えられるほど頑丈ではなかった。
 彼女と離れた後は、とても心が軽かった。今まで彼女の重みを支えていた部分が楽になったのだ。当然のことだった。
 だがまるで、その部分を彼女に持ち去られてしまったようだった。空洞だけがそこに残った。

 こんなところでシェリルに再会するとは思わなかった。
 入城した夜の宴会で、グレンの後ろに控えていたロデリックは、大きな酒壷を持って、広間を危なげな足取りでうろつく侍女をとらえた。ひと目見て、シェリルだと分かった。別れた頃とほとんど変わっていない。相変わらず、十代の娘のようだった。
 無論、昔の知り合いだなどと名乗るつもりは一切なかったのだ。半分は戯れで入った大公の軍とはいえ、今のところはグレン──ひいては大公の目的に協力するつもりである。そのためには、シェリルに話した通り、ロデリックが暗殺者まがいの与太者だったなどと知られては都合が悪い。
 それに名乗ったところで、どうにもならない。彼女とのことは、もう終わったことだ。彼女の気持ちなどお構いなしに、彼が一方的にけりをつけた。

 だが、シェリルが軍の兵士に陵辱されたと、侍女頭に詰め寄られた時には、彼女が心配でならなかった。何をしてやることもできないが、そばにいてやりたい気がした。
 勝手で傲慢な思い込みだ。ロデリックがそばにいることで、彼女が慰められたのは、遠い昔の話だ。その手を振り払った男に、今さら善人面で近寄ってこられても、シェリルの神経を逆撫でするだけだろう。
 グレンにシェリルが初めて呼び出された夜、当直だった士官の一人に見張りを代わってもらった時も、自分の心境は自分でも漠然としか分からなかった。
 ただ彼は、口では事情を聞くだのと、もっともらしいことを言っていたグレンが、恐らくシェリルを抱こうとすることは予測していた。そして兵士に襲われてから日も経たないシェリルが、それを歓迎はしないだろうと思っていた。
 寝室からシェリルの悲鳴やすすり泣きが聞こえたなら。はっきりとした意志はなかったものの、やはり漠然と、自分がどうするかは他人事のように予想していた。もう一人の見張りを始末して、寝室に入り込み、シェリルを連れ出す。グレンがそれを止めようとするなら、彼も始末するまでだ。大公の野望など、ロデリックにとって娯楽より尊いものではありえない。
 だが案に反して、寝室から聞こえてきたのは、シェリルの甲高い嬌声だった。もう一人の見張りが、彼女の声を聞いて好色そうに目配せをしてくるのを見て、何の関係もない彼を殴りたくなった。
 彼女とはもう道を違えている。ひとりで歩いているシェリルに、彼がしてやれることはない。
 思い知らされた気がした。

 それでも再びシェリルがグレンに呼び出された昨夜、もう一度彼女の様子を見たいと思った。グレンに仕える生真面目な副官としてでいい。彼女の心境を聞きたかった。
 彼はサラを伴わずにシェリルの部屋へと赴いた。もしもシェリルが、グレンと寝ることを泣いて嫌がり、彼に助けを求めたなら。その先は正直なところ、やはりあまり考えていなかった。
 そして調子に乗って話をしながら、もしかして、生真面目な副官として、まったく別の人間として、自分の過去は伏せたまま、シェリルと新しい関係を築くこともできるのかもしれないと思った。
 しかし結局、シェリルのふくよかで瑞々しい肉体に触れるうち、欲望に負けてしまった。ロデリックはできるだけ丁寧に、脚や背中をほぐしているつもりだったが、香油を塗られて、ライラックの香りを放つシェリルの輝く肌は、何度も彼の手を意識するようにぴくぴくと震えた。彼女が快感を覚えているのは確実だった。うつ伏せにさせた娘の背中を撫でながら、ロデリックの息も少しずつ乱れ、股間が徐々に強張ってくるのが分かった。
 相変わらず、可愛くて淫乱な娘。だからこの前もグレンに抱かれて、はしたない声で喜んでいたのか。
 グレンと寝た夜はどうだった。
 不意を突くつもりで、股間を熱くさせながら上擦った声で彼が尋ねた時、動揺するかと思った彼女は、非常に平然と「ええ、とても……。あの方も、お上手ですね」などと答えていた。
 よくも、俺の前でぬけぬけと。グレンに仕えている副官だからといって、そんなにあけすけに話していいと思っているのか。本当は誰に向かって言ってると思っているんだ。
 ロデリックには非常に珍しいことだが、頭にかっと血が上った。 

 今思えば早とちりによる失敗だったのだ。大失敗だった。
 シェリルが平然と答えていたのは、サラのマッサージの話だったとは。
(アホか)
 自分で自分を罵倒したが、過ぎたことは戻らない。
 ロデリックという完全な別人として、シェリルに認識させるという試みは、ゆうべ一晩の出来事で水泡に帰してしまった。
 だが一方で、随分と気分が軽くなった。ゆうべ彼女を抱けたのも、彼女の気持ちさえ考えなければ、楽しいひとときだった。シェリルは昔と変わらず、愛らしく、淫らで、かわいい。ロデリックによる愛撫で彼女が息を乱し、肌を薔薇色に染めて喘ぎ、快楽を貪る姿はとても愛しかった。 
 城壁から道へと降りる急な階段を下りながら、彼の胸は疼くように微かに痛んだ。
 残酷なことをしたかもしれないと思った。抱いた後に後悔した。
 シェリルは、以前にひととき手を取り合っていた男だと知って、ロデリックを頼るようになるかもしれない。だが、彼は応えてやることができない。期待されるのが怖かった。かつても憎くて彼女の手を離したわけではないのだ。彼女を傷つけたくはなかった。
 それにもかかわらず、今夜、城を抜けて町の城壁へと上るシェリルを見かけた時、ロデリックはそっと後を追った。シェリルと、昔の知り合いとして話をすることで、彼女が彼に何を望んでいるのか確かめたかったのだ。
 杞憂だった。
 シェリルはあんなに小さくて弱々しいのに、傷つきながらも既にひとりで歩いている。彼の助けなど必要としてない。
 彼女に縋っていたのは、もしかしたら自分の方だったかもしれない。応える気などないくせに、シェリルに期待されて、必要とされたがっていた。
 ここひと月ほどの、心の中で形をなさなかった靄の正体が、今夜やっと見えた気がした。時に、自分で自分が何を考えているのか分からなかったりする。
 シェリルとの間にあったことは、終わったものと思っていた。だが人間関係に終わりというものは無いのかもしれない。かつてあった絆は、なかったことにはならない。ただ、かたちを変えるだけだ。恋が信頼に変わることもあれば、愛が憎しみに変貌することもあるだろう。その形態は無数だ。
 階段を降り切ったロデリックは、足を止めてもう一度空を見上げる。城壁から下りただけだというのに、夜空がひどく遠くなったように見える。
 月の無い夜だった。なにものにも遮られない、無数の瞳が彼を見下ろしていた。


 ロデリックが去った後、シェリルはしばらく彼の姿が消えた方向を眺め、やがて首を上げてもう一度空を見た。
『サラとのことも、俺が知らないとでも思ったのか』
 ゆうべ、グレンはロデリックに向かってそう言った。
 ロデリックが、あの魅力的なサラと、どういう関係かは分からない。内密に将来を誓った恋人同士なのか、あるいはかつてのシェリルと彼のように、都合のいい時だけ肌を重ねるような関係なのか。いずれにしても、二人の間に肉体の交渉があるのは確かだろう。
 昨夜のあの時。グレンの存在に気づくまでは、ロデリックが『彼』だと分かった後、混乱する意識の裏で漠然と、彼がすべてからシェリルを救ってくれるかもしれないと考えていた。
 そんな夢物語のような、都合のいい話があるわけはない。彼とはとうに道を違えている。
 シェリルは小さな溜め息を吐いて、ロデリックが去ったのと反対方向に、市壁の上を歩き出した。ぐるりと回って反対側から帰れば、丁度いい夜の散歩だ。頭も冷める。

 降り注ぐような星空を見上げていたシェリルの耳が、微かな呻き声を拾い上げた。足を止める。見回したが、周囲に人も動物もいない。
 いや。
 彼女は前方にある見張り塔に目を凝らした。
 影が動いている。人間がいる。
 闇に慣れるに従い、輪郭が捉えられた。横たわる影。覆いかぶさる影。その側に屈んでいる影。
 再び呻きが聞こえた。いや、くぐもったすすり泣きだ。
 男二人が女を押さえ込んでいる。
 何が行われているか悟り、シェリルは硬直した。その瞬間、サンダルの下に挟まった砂利が、小さな音を立てる。
 屈んでいる男が、耳ざとくシェリルに気づき、こちらを振り向いた。
 逃げなければ。
 大声を出せば、立ち去ったばかりのロデリックが気づくだろう。別れた場所からは少し離れているが、彼はとても耳がいい。
 だが彼を何と呼ぶか、ほんの一瞬、逡巡した彼女は動きが遅れた。

 若い男は俊敏に動き、シェリルに追いついた。腕をがっちりと捕らえて、引き寄せられる。振り向いて男を認めた彼女の表情は、恐怖に強張った。
 なんということだろう。反対側の西の見張り塔の上で、シェリルを組み伏せたあの男だった。
 ポールというその男が、公都にいた頃からよく問題を起こしていたと、サラが語っていたことを思い出した。エドワードが、グレンやレジーナたちが知らないところで、略奪や強姦が横行していると叫んでいたことも。
 男もシェリルの顔を覚えていたらしい。喜色が浮かんだ。
「おお~、誰かと思ったら、あんたか」
 触らないで。離して。あなたに触れられることを、私は許せない。愛していなくても、愛されていなくても、許せる男もいる。でもあなたは許せない。
 心の中の叫びは、唇からは欠片すら漏れなかった。シェリルはただ震えながら、ポールを凝視していた。先日の得体の知れない恐怖と嫌悪感が、体の内側から這い上がってくる。
「また、夜の散歩か? ん?」
 馴れ馴れしく抱きすくめて囁きながら、男はいきなりシェリルに唇を寄せてきた。顔を背けたが、頭を押さえられて強引にくちづけされる。唾液の匂いが不快だった。
「いや……離して」
 ありったけの力で彼を押し退けようとした。膝で彼の腹を打つと、男の顔が歪んだ。顎を強烈な力で掴まれる。
「おい、痛いだろ。おとなしくしろ。──相棒がヤってる間、俺ヒマだったんだよ。丁度よかった。優しくしてやるから、静かにして」
 低く恫喝した後、兵士は一転して猫なで声を出した。顎をつかむ力も僅かに緩む。シェリルを覗き込む顔は、決して醜くはない。むしろ男性として魅力的なほどだったが、やはり彼に触れられるのは嫌だった。シェリルをただ、結合できる女としか思っていない男だ。
 ううっという、押し殺した女のすすり泣きが、もう一度聞こえた。見張り塔の陰で行われているのは、合意した男女の睦みあいではなさそうだ。男の一方的な聞き苦しい喘ぎが、断続的に響いてきた。 

 息を吐き、体の力を抜く。
 シェリルがおとなしくなったと思ったのか、ポールは満足そうに微笑んだ。
「よし、いい子だ。この前、あんただって気持ちよかっただろ? もう一回楽しもうぜ」
 言い終わらないうちに、男が唇を再び重ね、強引に舌を差し入れてくる。
「んっ……」
 シェリルは微かな声を上げながら、膝の力を抜いて、くず折れるように地面に座り込む。
 男もそうしながら、遠慮なくシェリルの豊かな乳房に手を伸ばした。痛いほどの力で揉まれる。彼の手がその中心をかすめると、鋭い刺激が臍の奥に突き刺さった。
「あんた、敏感だなあ。もう乳首が固くなってる」
 唇を離した若い兵士は、囁きながらシェリルの服の紐に手をかけた。乱暴な手つきでそれが解かれ、あっという間に服が押し下げられる。乳房がむきだしになった。
 男は赤子のように、そこに顔を寄せた。
 舌が触れた部分から、嫌悪を伴った、だが確かな快楽が流れてくる。

 でも私はやはり、この男が許せない。
 何もかも思い通りになるほど、世界は優しくはない。時には降りかかる災難に立ち向かうばかりでなく、受け入れることも必要だろう。
 だが逆に、自分を深く憎みたくないなら、戦わなくてはならないこともきっとある。
 流れてくる快感が体を重たくする前に、動かなければならない。
 男の愛撫を甘んじて受けながら、シェリルは膝を静かに曲げ、右手を伸ばした。服の下、脛に括りつけた短剣の柄に手が届く。
 男を受け入れられるか。決めるのは快楽に震える私の体ではない。頭だ。
 乳房を貪る男を見下ろした。今夜は見張りではないらしい。鎧を着ていない彼の首筋がよく見える。
 どこを切り裂けば一撃で殺せるか。レジーナが教えてくれた。
 半端な抵抗は身の危険を招く。男の気性と膂力は分かっているつもりだ。少々傷をつけたくらいでは、怒りを買うだけだろう。
 それに早く、向こうで襲われている女も助けなければ。
 強姦されかけたとはいえ、大公軍の兵士を手にかけたりすれば、シェリルとレジーナ、この城がどうなるか。不安は沸いた。
 だが結局のところ、それを決めるのはグレンだ。幸か不幸か、彼はシェリルをそこそこ気に入ってくれている。あとでどうにかして、彼を説き伏せればいい。それに彼は、ポールという兵士の処分を、シェリルの好きなように決めていいと言っていた。
 簡単だ。
 盗賊団を滅ぼしてから、シェリルは他人を手にかけたことはない。だが良心の呵責を押し込め、彼女は冷たく決意した。早くこの男を始末して、もう一人の女を助けるのだ。
 早くしなければ。動けなくなる前に。
 動作をさとられないように、わざと肩を上下させて息を荒げながら、シェリルは短剣の柄を握った。
 静かに抜く。



<第二章:終>



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