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ココナッツ図書館 夜間書庫

魔女とコヨーテ」
第六話 道の先

第六話: 道の先 22

2009.12.11  *Edit 

 体が緩やかに揺れている。しばらくその心地良い振動に浸っていたかったが、それは機械的な揺れではなく、何かの意志を感じさせた。
 目を開けると、生い茂る木々の梢の間から、夏の日差しの激しさを失った陽光が、優しく降り注いでいる。
「大丈夫?」
 彼女の体を静かに揺さぶっていた主の声が聞こえた。高くなり始めた、秋の初めの青い空のような、澄んだ涼しげな声。
 以前にも同じことがあったような気がする。あれは夢だったのだろうか。それとも今、平和な夢を見ているのだろうか。
 だって。
 記憶を辿ろうとする前に、顔を覗き込まれる。シェリルと目が合うと、コヨーテは微笑んだ。
 体を起こそうとすると、頭がずきずきと痛む。
 上半身を起こしたところで、たまらず俯いて痛みを堪えていると、頭をいたわるように撫でられた。触れられた場所は、小さな火がついたように痛んだが、シェリルは振り払うこともせず、その懐かしい感触を楽しんだ。
 ようやく痛みが少し収まるまで、傍らに座っている男は、彼女の髪を撫で続けた。
 顔を上げて、周囲を見回す。目の前には、細い清らかな流れがあり、辺りは木の根が重なって、土が盛り上がっている。
 意識を失う前のことを瞬時に思い出し、コヨーテを振り仰いだ。顔や髪の泥は洗い落としたらしく、すっきりとしている。
 意識が戻ったのだ。
 今さらながら実感し、胸の中が安堵に満ち溢れた。


 昨夜──かどうか、正確には分からないが、シェリルが意識を失う前──、意識の無いコヨーテの矢傷は、どうにか出血が止まった。しかし相変わらず彼の顔は土気色で、意識が戻る気配も無い。長くなり始めた夜はまだ明ける様子も無かった。広大な夜の山林で、盗賊や関所の兵隊に怯えながら、シェリルは必死でコヨーテの手当てを続けた。再び引き裂いた自分の服の裾を濯ぎ、泥と雨に汚れた彼の服を苦心して脱がせて、傷口に包帯をした。肘の傷にも同じように布を巻きつける。
 できることをやってしまうと、あとは彼の体力勝負だ。出血が多かったコヨーテの体が冷えないよう、包んで暖めるようにして、シェリルは彼の体に覆いかぶさった。しばらくの間は興奮と不安で目が冴えていたが、やがて極度の疲れにあった彼女も、睡魔に襲われた。ただ彼が回復して、意識を取り戻すことを祈り続けた。


 感無量で言葉も出ず、じっと彼を見つめるシェリルを、彼も見つめ返していた。
 やがてコヨーテの方から口を開いた。
「君が、手当てしてくれたの?」
「うん」頷く声がかすれている。「もう、怪我は大丈夫?」
「傷は塞がりかけてるみたい。今のとこ熱も持ってないから、化膿もしてないみたいだけど」
 彼は服の袖を捲り上げ、左肘の傷を見せた。巻かれた布には、血や膿の染みは無い。
「ただ、こっちの傷がね……」
 コヨーテは苦笑いしながら、矢傷があった左肩の後ろを指す。シェリルは緊張して尋ねた。
「どうしたの?」
「ちょっと見て」
 彼は紐を解いて襟元を広げると、肩をはだけて剥き出しにして見せた。そのまま後ろを向いて、傷のある方をシェリルに向ける。意識を失う前に、シェリルが苦労して巻いた布が当てられている傷口に、目をこらす。こちらは僅かに赤黒い血液の染みが、透けて見えた。
「傷、痛むの?」
 それほど悪化しているようには見えないが、シェリルが恐る恐る彼の背中に触れると、のんびりした声が返ってきた。
「いや、包帯緩くて、でろでろから、結び直して欲しいんだけど……。肘は自分で巻き直したけど、さすがに背中までは手が回らなくて」
 起きて早々、むっとした。暗闇の中、不器用なシェリルなりに 懸命に包帯をしたのに、礼より先に巻き方について文句を言われるとは、何のありがたみも感じてないのだろうか。
「だって、しょうがないでしょ。あたしだって、疲れてたんだから」
 おかげで、コヨーテの無事を喜ぶことも忘れて、仏頂面で彼女は言い募った。
「別に文句言ってるわけじゃないよ。傷口洗って、巻き直して欲しいの」
「今〜?」
 深い眠りから覚めたばかりだ。意識を失う前、触媒も無しに、雨だけを頼りに水の精霊に働きかけたことで、精神をかなり消耗したらしい。鈍い頭痛が、時折波のように襲ってくる。体も節々が痛むので、もう少し休んでいたかった。
「できればね」
 穏やかだったコヨーテの声が重くなった。彼は背中を向けたままだったので、表情は分からない。
「雨も上がったことだし、いつ関所の追っ手が追いついてくるか分からない。早めにここを離れたいんだ」
 シェリルの頭にも緊張が行き渡った。頭痛をこらえて辺りをもう一度見回す。意識を失った時と同じ場所だ。太陽はかなり高い位置にある。もう正午近くだ。
 コヨーテの言うとおりだ。ぐずぐずしていては、追っ手に見つかるかもしれない。シェリルは身を起こすと、彼の肩に巻かれた包帯を解き始めた。
 肘の切り傷より、やはりこちらの矢傷の方が深いらしい。包帯を解くと、傷口に当てた布が見えたが、血と分泌液、膿が染み出して、傷に張り付いていた。
「これ、一度はがすよ」
 躊躇しながらも、仕方なく声をかけると、コヨーテは頷いた。
「そうして。悪いけど、洗って綺麗な布に取り替えて」
 色白の滑らかな肌についた、戦いの傷が痛々しい。布をはがす時の彼の痛みを想像すると、手が竦むが、時間も無い。傷口の布をそっとどける。繊維と乾いた血がはがれる嫌な音が、シェリルの耳を引っ掻いたが、コヨーテはぴくりとも動かなかった。布を剥がした後には、血と膿の塊が見えて、悪臭が鼻をつく。
「うえ〜」
「うえ〜って……」
 シェリルが思わず唸ると、コヨーテは傷ついたようにシェリルを振り向いた。
「もうちょっと、怪我人に思いやりがあってもいんじゃない?」
 偉そうに。思いやりがなければ、疲労の極致にあった状態で、ここまでの手当てをするものか。
 また頭には来たが、それでもコヨーテが、そんな軽口を叩いていられることに安堵もした。出血が多かったせいか、まだ彼の顔色は良くないが、それだけの余裕はあるらしい。
「あとこれ、化膿止めになるから、塗ってね」
 やっとのことで傷口の布をはがし、すぐ近くの小川で布を洗おうとすると、コヨーテはシェリルの目の前に、緑色のすり潰した葉を突き出した。
「薬?」
「うん。近くで見つけた。それからこっちは、君のおやつ」
 掌に、ぱらぱらといくつかの木の実が落とされる。
 そういえば、昨夜盗賊に襲撃されてから、何も食べていない。急に空腹を覚えたシェリルは、コヨーテにもらった木の実の殻を割り、中身を口に含んだ。僅かな甘みがある、こっくりとした味が広がる。続けざまに口に放り込み、彼からもらった分は無くなってしまった。コヨーテはそんなシェリルを呆然と見ている。
「足りない……」
「もう無いよ。あとで魚獲ってあげるから」
 呆れ半分のコヨーテに肩を軽く叩かれ、彼女は渋々頷くと、川で汚れた布を濯ぎ始めた。

 シェリルのその後ろ姿を見ながら、彼はまるで賢い小動物が、人間を真似て洗濯をしているようだなどと思った。
 彼が目を覚ました時、シェリルは彼に覆いかぶさるように、うつ伏せになって眠っていた。
 彼女が魔術によって呼び込んだ、強烈な水流に流されてから、意識を失っていたことを、その時に思い出した。シェリルとしっかりと抱き締め合い、上流からまるで海蛇のように押し寄せてくる流れに飲み込まれたのだ。人間の体など、木の葉ほどとも思っていない強烈な流れに、手足を捻られ、体がぐるぐると回される感覚を覚えた。傷口に激痛が走ったと思った後、彼の意識は急速に遠のいていったのだった。
 目覚めた後は、泥にまみれ、彼の上に突っ伏すシェリルを見て、昏倒しているのかと心配になった。しかし顔を近づけて、彼女のいびきが聞こえた時には、脱力する思いであった。
 彼の肩と肘の傷には、不器用ながら布が巻きつけてあった。触媒もなしに大きな術を使い、疲れ果てていただろう彼女が、必死に手当てをしてくれたのが想像できる。
 最初に剣を合わせた男を始末する為に、誘い込むように陽動をかけたのだが、攻撃をよけきれず、肘上に刃を食らってしまった。引き換えに兵士の喉に剣を突き立てることができたものの、その後もシェリルを助ける為に、二人目の男に休み無く切りかかり、大分出血してしまった。彼が意識を失った後、彼女はその傷に気づいたらしい。
 シェリルの体をどけて起き上がった彼は、乾きかけの自分の外套を敷き、その上に彼女を仰向けに寝かせてやった。
「いつも数えてるの」
「は?」
 突然シェリルの声が上がり、彼は振り向いたが、どうも寝言らしい。目を開ける様子も無く、彼女は寝息をたてている。水流に押し流されたとはいえ、関所からまだそう遠く離れていないだろうに、呑気な話だと思った。
「数えてるって何を?」
「うん」
 思わず問い返したが、シェリルは頷くばかりで、再び安らかに眠り始めた。寝言と会話をするのも馬鹿馬鹿しい話だが、彼女は眠っている間に、よく寝言を言う。たまに全く的外れの答えが返ってくるのが面白く、彼は時々そうやって、シェリルの寝言に返事を返したり、眠っている彼女に話しかけたりしていた。しかし、ここひと月ばかりは、そんなことも全く無くなっていた。

 まだ王都を出て半月ばかりの頃、寝台に入るなり、高いびきをかいて眠ってしまったシェリルに、溜め息をついて話しかけたことがある。
「もう寝るの?」
「うん」
 寝息の合間に、覚束ない返事が返ってくる。
「……今日はしないの?」
「うん」
 彼女の肌が恋しかった彼は、少しばかり面白くない気持ちで、服を脱ぎ捨てて彼女の隣に寝転んだ。するとシェリルは寝息を立てたまま、いそいそと彼に体を寄せた。
 肌は重ねないというのに、ただしがみつきたいらしい。
 勝手な話だと思ったが、何故か表情は緩んだ。笑いを堪えながら、彼は微睡む娘に話し掛ける。
「……するの?」
「うん」
 返事は即座に返ってきた。
「本当に?」
「うん」
 鼻から抜けるような、微かな声を出しながら、シェリルは首を縦に振っているが、目を覚ます様子はない。
「明日にしよっか?」
「うん」
 何を訊いても頷くだけだ。彼は苦笑いして彼女の頭を撫で、もうひとつ聞いた。
「もう、ずっとしない?」
 返事は無かった。寝息だけが返ってくる。
 彼はシェリルを抱き締めて、瞼に唇を触れさせると、自分も目を閉じた。

 ほんの三月ばかり前のことだ。ここしばらく、シェリルにそんな愛しさを覚えたことはなかった。その感情を思い出すことはできても、もう一度宿らせることはできなかった。
 姿を変えてうつろう、人の感情は水のようだ。同じ形を保つことはなく、常に流れ続ける。
 しかし全く同じ感情を持つことはできなくても、かつて自分が持っていた情動は覚えている。それが偽りや幻ではないと、言い聞かせることはできる。
 ひとときの情熱が冷めた後、永遠の誓いで結ばれた夫婦は、長い道のりをそうして連れ添うのだろうか。盗賊たちに、あっけなく殺されてしまった、年老いた巡礼夫婦のことを思い出しながら、彼は考えた。
 シェリルは同じ年頃の娘よりしっかりしているし、知識もあれば、頭の回転も早い。
 しかし何故か彼は、そんな聡明な彼女が、時々自分について回る、可愛い動物のような気がしてならない。彼の言動の端々から、聡いシェリルもそれを感じているようだった。だがそれが不快ではないらしい。むしろ彼女もまた、彼に動物のようだと思われていることを、どこか喜んでいるように見える。気のせいだろうか。
 ぼんやりしているうち、洗濯を終えたシェリルが振り向く。
「洗ったよ。これで巻き直すね」
「丁寧にね」
 コヨーテの嫌みっぽい言い種に、再びシェリルはかちんときた。他意はないのかもしれないが、もう少し頼み方というものがあるだろう。
 しかし臍を曲げている暇はない。仕方なく、シェリルはよく絞った布を、化膿止めの薬草を塗った傷にあてがう。その上から包帯を巻いた。
「適当だねえ」
「丁寧にやってるよ」
「これ、ちょっと肩を動かしたら、またほどけてくるよ」
「じゃ、動かさなきゃいいじゃん」
「……そういう発想もあるね」
 いちいちやっていることに文句をつけられるのは頭にくるが、それでも昨夜のように、暗闇の中、たったひとりで、意識のない彼を介抱するよりはましだと、シェリルは思った。
「ありがとう」
 それでも服を直しながら、コヨーテは振り向いてそう言った。
 かつてのシェリルは、彼に微笑んでもらえるだけで幸せだった。他に何も求めていなかった。
 同じ気持ちに戻れたらいいのに。
 苦い思いで、彼女は微笑み返す。
 コヨーテは傷ついていない方の腕を伸ばし、シェリルの肩を軽く抱いた。せせらぎの香りに混じって、彼の体の匂いが漂う。ここ数日、水浴びをしていないので、蝋のような上品な匂いは、普段より深く鼻腔に入り込む。
 口の回るコヨーテだが、本当は意外と、感情を言葉にするのは苦手なのかもしれないと思った。
 コヨーテはしばらくの間、シェリルの首筋に顔を埋めたまま、一言も発さずにじっとしていた。木々の梢から、微かに降ってくる鳥の囀りだけが聞こえていた。


 ふたりは身支度を整えると、慌しく動き出した。
 方角を考えれば、小川は西に向かって流れているようだ。
 荷物と一緒に、食料や水筒も置いてきてしまったので、追跡の脅威はあったが、小川から離れて森に入り込むのも危険だった。彼らは追っ手を警戒しながらも、結局は川沿いを歩いた。
 山に入れば、よもや東側の賞金稼ぎや、暗殺者ギルドの刺客に狙われることもないだろうが、今度は関所の兵隊を警戒しなければならない。どうにも難儀だ。
 幸い、擦り傷を除いて足に怪我は無かったが、貧血気味のコヨーテは、時折体をぐらつかせて、しばしば休憩を取った。
 そのたびに彼は、これまでの旅路で、シェリルが疲れた、生理だと、休憩を取りたがったことを、旅が遅れると責めたことに対して、罪悪感を覚えた。彼女は元から体力が無いことに加え、魔術の治療を受けて、大幅に体の機能が落ちていたのだ。男の彼と同じように歩けというのが、無理だったのかもしれない。旅に出た当初は、シェリルを思いやる余裕もあったが、やがて彼女に合わせることに疲れてきてしまった。それを、彼女にいつまでも体力がつかないからだなどと考えていたのは、自分勝手な欺瞞だ。
 シェリルは、吐き気に襲われた彼が俯き、立ち止まるたびに、「少し休む?」と声を掛けた。彼が頷くと、腰掛けやすそうな場所へ導いてくれる。嫌な顔ひとつしなかった。
「ごめん。もたもたしてたら、兵隊に追いつかれるかもね」
 自嘲しながら彼が呟いても、彼女は苦笑いを返すだけだった。
「その時はその時だよ」
 度胸を決めたのか、己の幸運を信じているのか、シェリルは慌てた様子も無い。
 シェリルが疲れや貧血で座り込んだ時、今、彼女が言ったようなことを、その時の彼女に言ってやればよかったと、彼は後悔した。
 後悔とは、ある意味気楽な作業である。決して戻らない過去の一点で、ある選択をしたこと、しなかったことを悔いることだ。決して戻らないと知っているからこそ、悔いることができるのかもしれない。
 もし未来にて、同じ状況に陥った時、過去に後悔した選択を、再び選ばないと言えるかどうかは、また別の話だ。

 夕方近く、川の流れから少し離れた場所で、彼らは野営をした。
 コヨーテが懐に隠し持っていた火打ち石のお陰で、火を灯すのに大きな不自由は無かった。
 小川でコヨーテが魚を獲っている間、シェリルは木の実や、食べられる野草などを摘んできた。夏の終わり、秋の初めという気候が幸いし、食糧が無くてもどうにか調達できる。
 茸を採りながら、ふとシェリルは、このままこの山で、コヨーテとふたりで暮らしていけないだろうかなどと考えた。自然と共に寝起きをし、森の恵みで自給自足の生活を送る。
 すぐに鼻から小さな息を吐いて、その思いつきを笑った。あのコヨーテが森で隠者のように、慎ましく暮らしていけるはずはない。彼は人一倍慎重なくせに、常にどこか刺激を求めているふしがある。
 それにシェリルとて、これからの数十年、この山の中で何の目的も無く、木々と土と太陽と共に、静かに生きていけないだろう。まだまだ、見てみたいものがたくさんある。
 各々採ってきた食材を火で炙り、腹に納めた後、ふたりは身を寄せ合って、ぼろぼろになった外套にくるまって眠った。
 すぐ近くに、コヨーテの温もりと匂いを感じながら、シェリルは梢の隙間から覗く星の天幕を見上げていた。獣よけの結界を張っているせいか、狼や夜の鳥の声も聞こえず、少し離れた小川のせせらぎの微かな音がするだけだ。世界中に、ふたりしかいなくなってしまったようだと思った。
 もしそれが本当でも、少しも淋しくはない。
 だが実際は違う。この夜空の下には、彼女と彼の他にも、たくさんの人間たちが蠢いて、懸命に生きている。
 湧いてきた寂寥をこらえ、シェリルは隣の男の寝息を聞きながら目を閉じた。眠るふたりを、夜の千の目が見下ろしていた。


 山脈を抜けるには、巡礼道を辿って、男の足で約十日かかる。
 兵士たちの追跡を恐れたふたりは、巡礼道には戻らず、川に沿って西へと下った。幸い、道が途切れて崖へと続いているようなことは無かったが、気ままな水の流れに沿って曲がりくねった道は、お世辞にも歩きやすいとは言えなかった。
 コヨーテは怪我を負い、シェリルは体力が衰えていた為、ふたりはゆっくりと慎重に川沿いを進んだ。天気が崩れることも少なく、旅の足こそ遅かったものの、ふたりは確実に山を西へと進んでいた。
 休息や睡眠を多めに取り、魚や野草をよく食べたせいか、コヨーテの怪我も徐々に回復していた。ここに及んで、シェリルはどうも彼が川魚を獲る際に、何か術を使って小細工をしているらしいことに気づいた。毎日四匹も五匹も獲れてくるので、漁師か何かをやっていたこともあるのかと思うほどだった。しかしある日、川の流れに足を浸した彼が、流れに向かって、何かぶつぶつと呟いているのを見かけたのだ。
 かつて彼が、乗馬が苦手なシェリルの乗る馬に、何事か囁いて言うことを聞かせたのと、同じような術だろう。
 その川魚をありがたく齧りながら、シェリルがそのことについて触れると、コヨーテは悪びれた様子もなく言った。
「だって、腕怪我してるのに、毎日そう何匹も捕まえられないよ。魚に暗示かけた方が早いもん」
「どんな術なの?」
 好奇心をかきたてられたシェリルが尋ねると、コヨーテは薄笑いを浮かべて首を振った。
「内緒。<聖域>の術は、そう簡単に外の人間に教えられないの」
「いーじゃん。魚獲る術ぐらい」
「だめ。君、食い意地張ってるから、教えたが最後、川じゅうの魚食べ尽くすでしょ」
 いくらなんでも、そんなに食べるか。
 早く彼の怪我が全快して欲しいとシェリルは思った。思い切り背中をひっぱたいてやりたい。
 毎夜寝る前に、彼の肩の包帯を洗って取り替えるのは、シェリルの役目だった。巻き方が雑だと文句をつけられては、臍を曲げた彼女が自分でやれと突き返し、結局コヨーテが謝って、再度シェリルが包帯を巻くということを、懲りずに繰り返していた。
 肘の傷は見た目は派手だが、浅かったらしく、既に塞がりかけている。肩の傷も幸い化膿もせず、大分良くなってきていた。
「まだ痛い?」
「動かすとね。でも一時期に比べれば、大分ましだよ。最初の手当てが早かったからね」
 はっきりと礼は言われなかったが、コヨーテが感謝しているらしいのは伝わってくる。こうして言葉で直接表さなくても、伝わってくるものもある。かつて山に入る前くらいは、互いに言葉を尽くしても、それが相手を傷つける凶器にしかなっていなかったことを思えば、言葉はやはり万能ではないと、シェリルは感じた。
 しかし言葉がなくても、想いのすべてを伝えられるほど、人間の心は単純ではない。林の中で時々顔を見せる、鹿や栗鼠のように、いっそ動物だったらいいのにと、最近彼女はよく考えた。毎日餌を食べて寝て、体が熟せば、気に入った異性と番う。子孫を残して、子供を育て上げたら死ぬ。それだけだ。それ以上のものはない。魔術師であったシェリルは、無知は罪であり、不幸であると考えていたが、やはり無知とは幸せではないかと思った。


 関所から逃れて、十日近く経った。とうに山を抜けていてもいい頃だが、整えられた巡礼道ではなく、川沿いを進んでいた彼らは、まだ道半ばにいた。
 その日の昼、ついに雨に見舞われた。川から離れた大木の根元で、ふたりは雨宿りをした。
 岩が多い道を歩いてきたので、足が疲れていたシェリルは、草地にごろりと寝転んだ。傍で胡坐をかいて座っていたコヨーテが、彼女の頭に手を伸ばす。ここのところ寝る前には、以前たびたびそうしてくれていたように、彼はシェリルの髪を撫でてくれることが多かった。
「枕にする?」
 頭の後ろに手を添えられ、そっと座ったコヨーテの腿に導かれる。
「……重くない?」
「重いけど、別にいいよ」
「重くないよって言えばいいのに」
 そう言いながらも、シェリルは寝転がったまま体を動かして、彼の腿の上に頭を乗せた。正直言って、あまり納まりがいいとは言えないが、温かさに包まれて安心する。コヨーテに膝枕をしてもらうなんて、随分と久しぶりだった。
 彼はシェリルの頭を撫でながら呟いた。
「シェリル、少し寝たら? 雨はしばらく……」
 彼の言葉の途中で、早くもシェリルの鼾が聞こえてくる。よく寝る娘だ。
 苦笑いしながら、右手でしばらくシェリルの頭を撫で続けた後も、雨はまだ止まなかった。シェリルの頭をそっと脚からどけて、彼もまた彼女の隣に横たわった。

 そんな風に、ふたりして雨宿りの間に昼寝をしたお陰で、その夜は食事の後もなかなか眠れなかった。
 夕方には雨はすっかり上がり、美しい夕焼けを見せていた空には、今は無数の星が瞬いている。いつものように仰向けになってそれを眺めながら、シェリルはもの思いに耽っていた。彼女の方を向いて横になったコヨーテもまだ起きていて、シェリルの髪を撫でている。
 山に入る前と比べて、彼は格段に優しい。負傷した彼をシェリルが助けているからだ。それまで、ひとりで何でもできていたコヨーテは、他人など必要としていなかった。今はかなり回復したとはいえ、負傷した当初は、彼は左腕を使うことがほとんどできなかった。道を歩く時でも、洗濯をする時でも、シェリルの助けを借りるしかなかったのだ。
 シェリルもそれを恩に着せるつもりはない。彼の怪我は、彼女のせいでもあるからだ。関所で争いになった時も、コヨーテひとりであれば、怪我など負わずに逃げられただろう。
 それでもコヨーテが、シェリルに面倒をかけていることに負い目と感謝を覚え、彼女に優しく接してくれるのは、当然嬉しかった。他人を受け入れる隙がほとんど無かった彼が、別の人間の支えを必要としていて、シェリルがその支えになれることは、もっと嬉しい。
「ねえ」
 髪を撫でる手を止めず、コヨーテの声が聞こえた。シェリルが首をひねると、彼は僅かに目を細める。
「眠れる? 何してたの?」
「ううん、まだ眠くない。……星見てたの。あなたは?」
「考えごとしてた」星明りの下で、彼の唇の形が笑みを刻むのが見えた。「初めて君と会った時のことを思い出してたよ」
「ああ、あの時ね。あたし、驚いたよ。不治の病で施療院に入っている、あたしのお兄さんと、あなたそっくりなんだもん。元気なお兄さんの姿の幻を見ているのかと思った」
「……君も、結構根に持つよね」
 コヨーテの昔の悪い冗談への意趣返しに、彼は小さく溜め息をついて答えた後、再び口を開いた。
「なんかさ、他人の振りをする時って、僕はその人間になりきって考えたり行動したりするんだけど、それが長いと、なんとなく本当にその人間なんじゃないかって気がしてくるんだよね」
「それ、あたしもそうだよ」
 シェリルは頷いた。フィリスの身代わりとなっていた頃は、伯爵令嬢であると己に言い聞かせ続けたために、時折本当の自分との境界が危うくなることがあった。だからこそ、フィリスに向けて捧げられていた、レナード公子──当時は偽物だとは、知る由もない──の優しさを、自分に向けられたなどと、勘違いしてしまったのだ。不思議なのは、十分にそれは錯覚であると言い聞かせても、心はそうは受け取らなかったということだ。
 おかげで今のこの状況がある。あまりにも多くの出来事があったので、彼と関わったのが良いことだったのか、そうでなかったのか、もはや一口には語れない。もし、彼と出会わなければ。そんな仮定は、意味がない。
 コヨーテはシェリルに頷き返して、話を続けた。
「そうだよね、やっぱり。僕もレナード公子を演じていた頃は、公子になりきっていたからさ、あの肉団子みたいな男に向かって、君が短剣抜いて立ち向かった時、本当に感動したんだよ。こんな勇敢な人が、自分の婚約者でよかったと思ったんだ。実際は、君がどんな人間だろうと、辺境伯のとこに連れてさえいけばよかったんだけどね」
 シェリルがまっすぐに彼を見つめ返すと、髪を撫でるコヨーテの手は静かに止まった。温かい感情が胸の奥から溢れてきて、彼女の心を満たす。あの時、シェリルも同じことを考えた。彼のような人が自分の婚約者でよかったと、違う人間を演じていることを承知していながら、そう思った。
 だがそれを口に出して彼に伝えるのは、何故だか悔しい気がする。シェリルはその幸せを、含み笑いを浮かべながら、ひとりでこっそりと味わい、代わってからかうように言った。
「公子の奥方にふさわしく見えた?」
「一般的にどうかは置いておいて、僕が公子だったなら、肉団子みたいな男に追い詰められて、悲鳴あげるだけのお嬢様より、噛みついてやるぐらいの元気がある方がいいなと思ったんだよ」
「別に噛みついてないよ……」
「それに気取った貴族娘と違って、君、正直だったしね。旅の間中、僕のこともの欲しそうに、じろじろ見てたし……」
「だから、そんなことないってば」
 そんなことはあるのだが、闇の中で顔を赤らめながら、シェリルは言い返した。
「あなたの自意識過剰じゃないの? そんなにじろじろ見てないよ。大体、もの欲しそうな視線って、どんなのよ」
「んー、言葉に直訳すると『ヤって、ヤって』って感じかな……痛い! 痛いよ」
 あまりにも失礼な話に、思わず彼女はコヨーテの頭を二度ほど叩いた。彼は右手で彼女の手首をつかみながら、さらに続けた。
「でもさ、僕が本当に貴族の息子だったりしたら、品だとか慎みだとかで、気取ってる女の人なんかは、絶対嫁さんにしたくないと思うんだよね。毎晩自分の奥さんとやるのに、頭下げて、跪いて、頼み込まなきゃいけないんだよ。超メンドくさいよ」
 再びコヨーテの手が、シェリルの髪を撫で始めた。少々憮然とした彼女は、幾分硬い声で答える。
「どういう意味? あたしだったら、跪いて頼み込まなくても、すぐやらせてくれそうだってこと?」
「まあ、そういうこと。──褒めてるんだよ」
 シェリルの表情が、徐々に悪鬼のように変わっていくのが見えたのか、コヨーテは慌てて付け足した。
「だって、考えてもみてよ。夫婦なのに、奥さんの方が高飛車につんけんしてたら、僕だったら萎えるよ。君みたいに素直に『早くヤって』って言われた方が、全然嬉しいよ……痛い!」
「言ってないよ!」
「言ってなくても、丸分かりだから……痛いってば」
 コヨーテの頭を平手で叩きながら、かつてレナード公子を演じていた彼が、彼女を抱きながら、同じようなことを言っていたのを思い出した。夫婦生活が楽しみだなどと言われ、罪悪感と羞恥心に、シェリルは赤面したものだ。
 コヨーテが触れる髪の先から、淡い感触が伝わってくる。鼓動が静かに速まり始めた。
 山脈に入るひと月ほど前から、彼とは肌を合わせていない。一度コヨーテが手を伸ばしてくれた時、シェリルは他の女を抱いた彼を、受け入れることができなかった。
 山に入ってからは、並んで眠るようになったが、彼女は隣で寝る彼に対して、親しさは覚えても、欲望を感じたことがない。
 けれど今、シェリルの心臓は何かを期待するように小さく弾み、そこから微かに甘い漣が打ち寄せる。
 今のコヨーテの話は何だったのだろう。彼女の気持ちを見抜いていて、言葉の裏でシェリルに何か訴えているのだろうか。
 頭を撫でるコヨーテの指先が、シェリルの耳に触れる。彼女はそっと彼の胸に手を押し当てた。
 今なら。
 今だったら、素直に抱いて欲しいと言えるかもしれない。そしてシェリルも彼を受け入れられるかもしれない。
 だが彼は怪我を負っている。
 高ぶるものを押し殺し、シェリルは目を閉じた。彼の手はそのまましばらく彼女の髪を撫で、時折指先が彼女の耳や頬に触れたが、やがてその動きも止まった。コヨーテの小さな鼾が聞こえてくるまで、シェリルは目を瞑ったままじっとしていた。

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~ Comment ~

本当に楽しみ 

いつも、ドキドキしながら更新されるのを楽しみにしています。
ものすごく読んでいて満足感を感じます。
途中までの2人も大好きでしたが、
このところの2人もリアルで読み応えを感じます。
特にシェリルが、独立した1人の女性として立ち直ってから(なんとなく 風とともに去りぬの スカーレットみたい)可愛さも残しつつとってもけなげで大好きです。

でも、今回の「無知とは幸せである」という言葉には衝撃を受けました。
私もたまにこういう風に感じる事があるからです。
でも、無知でないために素直になれないシェリルがとっても可愛く感じます。

今後の展開を楽しみにしております。
どうぞ、お体ご自愛いただき、ぜひこの話を読める幸せを続けさせてください。

Re: うにさん 

コメント、ありがとうございます!

更新を楽しみにしていただいているなんて…ありがとうございます!

二人の関係も、ターニングポイントを経て、徐々に変わってきていますが、ここ数回はかなり昼ドラのようになってきていますね(笑)

自分の性質を知った上で、心の形を整えて立ち直るなんて、できそうでなかなかできないですね^^ 
お話の主人公としては、極めて意志が弱いシェリルですが、彼女なりに懸命であるように見えていれば嬉しいです。

時に、何も知らない方が幸せではないかとは、私もよく思います。
特に体重計とか…発明した奴…誰だ…。
シェリルは知識があり、色々と考えてしまうために、自分の感情をぶつけて、砕けてオワリ、という風にはならないんですよね。
気の毒だと思いますが、そんなかたくなさを見守っていただけたら幸いです。
素直な方が、人間可愛いんですけどね~。
そうしようと思っても、できない人も多いと思うんですよ。素直さ、天真爛漫さって、ある種の才能です~。

このお話もあと少しですが、最後まで頑張りたいと思います。
寒くなりましたので、うにさんも、どうぞ体調にはきをつけてくださいませ^^



re: 拍手お返事 >Mさん 

拍手、ありがとうございます!

いつも楽しく読んでいただいてありがとうございます!
シェリルは繊細で臆病で、すぐ守りに入っちゃいますね。
物語の主人公としては後ろ向きですが、共感していただける部分があれば幸いです。

金曜日はずっと雨が降っていて、憂鬱でしたね~。
うう、このお話がいっときの慰めになれば本当に嬉しいです。
残すところ少ないですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

re: 拍手お返事 >Kさん 

拍手、ありがとうございます!

その時間が定時となると、家で何もできませんね~。疲労が蓄積していきそうです><

千の目…そうなんです~!
気づいていただいて、ありがとうございます。
帝釈天の逸話は知りませんでした。そんな話があったんですねー。
千…恥ずかしい…です。外を歩けないですねえ(笑)
でもシェリルの性質を表しているような気がしないでもないです。修行して千の目に変えることができれば…すごいんですけど^^;

千の目はアイリッシュ(ウールリッチ)の小説からです。
中学生くらいの頃に読んだんですが、結末が強烈で、以降、星を見ると「うーん。目のようだ」とちょっと怖くなってしまった時期がありますねえ~。若い頃は繊細でした…。


危機を乗り越えて穏やかになった二人ですが、もう少しだけ旅路は続きますので、…ううう、お付き合いいただけると…うう…嬉しいです。
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