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山間の城の物語」
第一章 山間の城

8.言葉もなく、ただ (1)

2010.08.12  *Edit 

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8.言葉もなく、ただ

 早足で廊下を通り過ぎる副伯夫人の形相を見て、召使いや侍女たちは声も掛けられずにただ見守った。
 立ち回りのおかげで服は土埃にまみれ、城内の坂道や階段を大股でどかどかと歩いていたら、靴の踵が折れてしまったので、今は裸足だ。彼らが何事かと思うのも無理はないが、説明するゆとりはない。まずは問い詰めなければいけない人間がいる。
 ノックもせずに小食堂の扉を大きく開けると、グレンは昨日と同じく既に席に着き、給仕の少年と何か話していた。凄まじい勢いで扉を開け放ち、土に汚れて、踵の折れた靴を持ちながら、裸足で立っているレジーナを、二人ともほんの数瞬唖然と見つめた。
「今日は畑仕事の手伝いですか? お待ちしてますので、着替えてきていただいて結構ですよ」
 口元を緩ませながらレジーナを見やるグレンを無視し、給仕に向き直る。
「ちょっと外してくれない?」
「はい」
 蒼ざめたようにも見える哀れな若い給仕は、姿勢を正すと、そそくさと隣室に姿を消した。
「派手にコケたのか? 随分な格好だな」
 椅子の背もたれに大きく体を預け、のんびりとグレンは言った。レジーナは杯を用意された向かいの席には腰掛けず、立ったまま彼に詰め寄った。初めて会談を持った時も同じ姿勢だったことを思い出す。
「頼みがあるのよ」
 言葉とは裏腹に、高圧的な声音で告げると、グレンは肩をすくめた。
「そんなおっかない顔で頼まれたら嫌とは言えないだろ。……何?」
「あんたのとこの兵隊が全員揃っているか、怪我を負っている奴がいないか、今すぐ確認させて」
「今? これからメシなんですけど……」
「今すぐよ」
 グレンの言葉を遮ってぴしゃりと言うと、彼はわざとらしく大きくため息をついた。
「なんで? 理由ぐらい聞いたっていいだろ」
「あたしのこのカッコ見て分かんない?」
 グレンは眉を寄せた。彼の頭には事実とは若干違うことが浮かんだだろうが、この時点で全ての手がかりを話してしまうのは避けたかった。
「……ほんとか? お前に襲い掛かるような命知らずがいるのかよ?」
「少なくとも城内の人間や城下にはいないわね」
「なるほど」グレンは背もたれに寄り掛かっていた体を起こし、前屈みになった。「それで俺のとこの兵隊を疑ってるわけか」
 レジーナは答えずに、ただ目の前の男を静かに睨んだ。
 ここでどう答えるか。一瞬の表情の変化、瞳の揺らぎさえ見逃すまいと目を凝らす。
「何された?」
「は?」
 予想外の質問に、思わず間抜けな声が飛び出した。
「そいつに何をされたんだ? どっか触られたのか? やられた?」
 遠慮の無い、率直すぎる言い草にかちんと来た。そんなに迂闊な女に見えるのか。
「ふざけんじゃないわよ。触られる前に腕をねじりあげて、短剣を投げつけてやったわ」
「ならいい。よくやった」
 グレンはひとつ頷くと、再び椅子に体を預けた。
「……なんであんたに、そんなに偉そうに誉められなきゃいけないの」
 部屋に入ってきた時から、レジーナは既に悪鬼のような表情だったが、眉間の皺はますます深くなった。
「当たり前だ。苦労して手に入れた俺のもんだ。他の男に簡単に触らせてたまるか」
 冗談めかしたグレンの言葉に、レジーナは今度こそ腹の底から沸いてくる、灼熱のような痛憤を覚えた。
 半ば戦利品扱いされていることは承知していた。しかし面と向かって、所有物のように言われるのは我慢がならない。はらわたで渦巻く怒りのあまり、声も出せない。ただ指先が小刻みに震えた。
 
 グレンは怒りに震えるレジーナを興味深く見ていた。
 つい昨夜、この場所で飼い犬のように従順に膝をついて、彼の性器を口に含んでいた女とは思えない。誇りを傷つけられた怒りに目が輝き、表情は引き締まり、髪も逆立たんばかりだ。レジーナは人形のように静かにしている時よりも、感情を溢れさせている時の方が美しい。
 またひやかしてやろうと思ったが、今度は本気で腹を立てているようだ。頭はいいが、物分りはそうよくはない女だ。あまりつついても、こちらが思わぬ痛い目を見るかもしれない。
「分かったから、そう睨むな。こえーなー。とにかく状況をもう少し教えろよ。どこで、どんな奴に絡まれたんだ」
 レジーナは一瞬躊躇した。
 貯水槽で見かけた男が公国軍の人間なのは間違い無いとしても、彼が単純に貯水槽の側をぶらついていて、規則を破って女に襲い掛かったのかは分からない。あるいは別の目的があって貯水槽にいて、姿を目撃されたレジーナをどうにかしようとしたのかもしれない。
 万一そうであるなら、男の動きにグレンが関わっていないとも限らない。
「お風呂を出て、城館に戻ってくる途中で、髭を生やした男がつかみかかってきたのよ」
 僅かの間考えた末、レジーナは男が貯水槽にいたことを告げなかった。グレンは首を傾げた。
「士官の内の一人か? 兵卒どもは、まだ兵舎と訓練場の外には出ないように言ってあるはずだ」
「分からない」
 レジーナは首を振る。五十人以上いる士官の顔を、たった三日で全て覚えられるはずがない。ただ、士官たちは髭や髪を含め、身なりを整えている。あのような髭面の男を士官の中で見かけたことはなかった。
「なーんか、よくわかんねーなー」
「嘘じゃないわよ」
 テーブルにだらしなく頬杖をついて目を背けたグレンに言い募る。ここでうやむやにされてはたまらない。
「嘘とは言ってないよ。士官と兵隊たちが全員揃ってりゃいいんだろ? 丁度メシの時間だから、確認しやすい。給仕に言って、ニコラスを呼ばせろ」
 顔色を変えるほど憤っていたレジーナは、グレンがあまりにも簡単にそう言ったので、今度は拍子抜けした。
「随分素直じゃないの」
 隣の部屋にいた給仕を使いに走らせ、レジーナは再びグレンの前に立つ。まだ感情が高ぶっている今は、寛いで腰掛ける気にはなれない。
 グレンは渋い顔で応じた。
「鬼婆みたいな顔で凄んどいて何言ってんだよ。誰だって言うこと聞くっつーの」
「……ふん、どうせそんなに怯えてないくせに」
「いや、マジで怖いって。──それにお前に疑われたままじゃ居心地悪いし、実際に俺んとこの兵隊がやらかしたなら、問題だしな」
「ふーん。真面目過ぎて胡散臭いね」
「おい、絡むなよ」グレンが肩を竦めた。「一応誠意を尽くそうってんだからさ。なんか不満があるのか? 何にしても、俺は部下にお前んとこの人間には乱暴するなと言った。それを破ったヤツがいるなら、処分しなきゃ他に示しがつかないだろ」
「処分って……」
「恐れ多くも副伯夫人に襲い掛かったんだ。見せしめの為にも、素晴らしい死に方をさせてやる」
 表情も変えずにそう言う男を見て、寒気を覚えた。
 昔と比べれば、格段に丸くなったと思ったが、酷薄なところは変わらない。もしも犯人が彼の兵隊の中から見つかれば、ためらわずに手を下すだろう。
 かつてレジーナの目の前で、グレンの手によって肉の塊に変えられた男がいた。隊商を狙った盗賊だったが、被害にあった人間ですら目を覆いたくなるような惨状だった。レジーナも胃の中のものを戻さないようにするので必死だったような気がする。先刻自分を襲った男が、あのような変わり果てた姿になるのかと思うと、さすがに微かに同情を覚える。

 ほどなく急ぎ足でニコラスが駆け込んできた。
「食事中でしたが……何のご用でしょうか」
 言外に僅かに不満を匂わせながら、ニコラスはレジーナの隣に並んだ。彼女に向かっては、伏し目がちに微笑みかけたが、その服が土埃に汚れているのを見て、瞳の奥で驚きを見せた。
「今、食堂に士官は全員いるか?」
「揃っています。食事を逃したくはないですからね」
 グレンはニコラスの答えを聞いて、レジーナを一瞥した。レジーナは答えない。彼はニコラスに視線を戻した。
「よし。じゃあ次は兵舎に行って、兵士と手伝いの人間が全員揃っているか、怪我をしている奴がいるかどうか確認してこい」
「え……今からですか? 私、食事中ですが……」
「今すぐだ」
 つい先刻レジーナがグレンに言ったのと同じ口調でグレンは告げた。馬鹿にされている気がした。いや、実際馬鹿にされているのだろう。
「分かりましたよ」ぞんざいに答えたニコラスは大きくため息をついた。「しかし、何の為ですか?」
「夫人を見て分からんか?」
 レジーナを改めて見やったニコラスの顔色が変わった。当初のグレンと同じ誤解をしたらしい。レジーナに向き直り、痛ましそうに表情を歪める。それがあまりにも大袈裟で、逆にレジーナは気が削がれてしまった。
「レジーナ様……なんという。お怪我はありませんか?」
 ニコラスは片膝をついて屈み、レジーナを見上げた。どう答えるかレジーナが迷っていると、グレンの声が響いた。
「おい、傷ついている婦人に正面から聞く奴がいるか。大事には至ってないから安心しろ」
「しかし……我々の兵がしでかしたことだとしたら、なんとお詫びしていいか」
 ニコラスはグレンの方には目もくれず、レジーナに向かって深く頭を下げた。どうやら彼は本当にレジーナに対して申し訳なく思っているように見える。
「そのような卑劣な人間は、私が必ず見つけ出して見せます」
「ニコラス、先走るな」
 いちいち言動が大袈裟なニコラスに、グレンも少々うんざりしているようだ。
「まだ俺たちのところの人間が犯人かどうか分からん。兵士たちに馬鹿正直に顛末を話してみろ。もし犯人がいなかったら、奥方様の印象が悪くなるだろう。お前は言われたことをやれ」
「かしこまりました」
 ニコラスはそれ以上文句も言わずに立ち上がった。レジーナは踵を返そうとするニコラスの腕に手をかける。
「ニコラス様、私も兵舎に連れて行っていただけませんか?」
「え……」
 ニコラスは目を見張り、次いでグレンの顔を見た。視界の端でグレンが顔をしかめたのが分かる。舌打ちしたい気分だろう。些細なことだが、グレンを出し抜いてやったのが小気味よかった。グレンとニコラスに任せるよりも、自分の目であの髭の男が公国軍の中にいるかどうか確かめたかったのだ。
 彼女の意図を悟ったのかどうか、グレンは眉を寄せたまま、それでも丁重にレジーナに言い聞かせる。
「奥方様、兵舎の兵卒たちは、士官とは違いますよ。恥ずかしながら粗暴な者もいます。奥方様自らがおいでになるのはお勧めしません」
「でも、司令官様」レジーナはグレンに向き直った。「私、どうしても直接確かめたいんです。もし公国軍の方でなかったら、とても失礼な話ですし。ニコラス様がご一緒くださるなら安心ですわ。お願いです。自分の目で見て確かに納得したいのです」
 先ほどグレンに「鬼婆」と評された表情はかき消し、哀願するように、掠れた声で訴えると、隣にいるニコラスは明らかに心を動かされたようだった。グレンに睨まれても普段のように睨み返さずに、悲しげに訴えるような目で見つめ返した。
「あの、グレン様……ここまで夫人がおっしゃっているので、お許しいただけませんか。私が責任を持ってお連れしますから」
 ついにニコラスがレジーナを援護してくれた。彼女は顔を輝かせて、ニコラスの手を取る。
「ありがとうございます、ニコラス様! 私の気持ちを察していただいて嬉しいです」
 ニコラスは恭しく微笑み返した。
「分かりましたよ」グレンは不承不承といった風に、上着を取って椅子から立ち上がった。「ニコラス、お前は先に行って、食堂に兵隊を集めておけ。全員揃えて、怪我を負ってる奴を確認させろ。夫人は仕度もあるだろうし、俺がお連れする」
 若い士官は一瞬、不満そうに眉をしかめたが、すぐに礼を取ると、身を翻して食堂を出て行った。
「……あいつ、お前に気があるみたいだな。毛色の変わった女には目が無いからな」
 レジーナもさすがにニコラスが、彼女に多少興味──少なくとも好意を持っていることは気づいた。だが首をゆっくり横に振る。
「そんなわけないでしょ。私は既婚者なのよ」
「公都では、男が恋愛を楽しむなら人妻だ。若い内に散々他人の奥さんと遊んでおいて、年取ったら、今度は若い女と結婚する。まあ、俺は若い女の子の方が好きだから、理解できない趣味だけどね」
「あっそ……」
 グレンの最後の一言にむっときた。二十代も半ばになる人妻のレジーナは若い「女の子」とは言えまい。あれだけ抱いておいて、好みでないとはっきりと言われると、グレンに惚れてなどいなくても不愉快だ。
 いささか不機嫌になったレジーナに気づいてもいない様子で、グレンは続けた。
「ま、せいぜい今みたいに都合よく使ってやれ。奴も尽くすのが大好きだから喜ぶ。──但し、体には指一本触らせるな」
「だから、なんでそんなことあんたに言われなきゃいけないの」
「偉いから」
 ふざけるな。とぼけた顔を殴りつけてやりたかったが、先ほどの憤怒のような激しい怒りは湧いてこなかった。もう麻痺しているのかもしれない。この男に真面目に付き合っても疲れるだけだ。諦めとともにそう思った。


 取り急ぎ自分が使っている客室に入って服を替え、新しい靴を履いた後で、レジーナはグレンと共に兵舎に向かった。
 夫が率いる軍が出陣してから、兵舎には足を踏み入れていない。領地を守るべき自軍の兵舎を、他国の軍隊が使っているのは、征服の象徴に他ならない。グレンに止められるまでもなく、レジーナは自分がそこを訪れていい気分になることはないと思っていた。それに正規軍とはいえ、貴族や騎士の出自に見える士官たちとは雰囲気は違うはずだ。女性であるレジーナがひょっこりその中に入れば、あまり芳しい視線には囲まれないだろう。グレンとニコラスがいれば、深刻な事態にはならないだろうが。 
「言っとくけど、トチ狂った連中がお前に襲い掛かってきても助けないよ」
 考え事をするレジーナの頭の中を読んだように、城を出て庭を歩きながらグレンは意地悪く笑った。
「話が違うじゃないよ。私や領民を保護する義務があるんじゃないの?」
「それは部下の話。俺にはそんな義務無いね。後で命令に従わなかった奴を罰するだけだ」
 屁理屈をこねているグレンは、恐らくレジーナを冷やかして面白がっているのだろう。ここで突っかかったら負けだ。レジーナは口元を歪めた。
「上等じゃない。じゃあ、剣を貸して。統率の取れていない集団は、まず手近な奴を徹底的に叩き斬って肉の塊に変えてやれば、大抵他の雑魚はおとなしくなる」
 グレンはさすがに顔をしかめた。
「……恐ろしいこと言うな、お前」
「あんたが昔言ってたんじゃない」
「そうだっけ? そんな凶暴なこと言ったかな」
 言っただけではなく、何度か実行したではないか。レジーナはよっぽどそう言い返してやろうと思ったが、口をつぐんだ。実際、複数の人間と戦う時には、その後のレジーナも同じようなことをしたからだ。
「まあ、冗談だよ。俺が動かなくてもニコラスが何とかしてくれんだろ。そもそもお前に襲い掛かるようなゲテモノ好きが、そう何人もいるとは思えないし」
「ケンカ売ってんの? ……剣はともかく、あんたが来た時に取り上げた私の短剣は? 磨きこんだ上等な奴なんだから、返してよ」
 グレンは首を傾げた。
「短剣って、お前が脚にくくりつけてた奴? 俺は知らないよ。あの部屋に置いたと思うけど。召使いどもに聞いてみろ」
 レジーナは頷きながらも、無くしてしまったのかもしれないと思った。

 話している内に、屋外の訓練場を横切り、兵舎に着いた。
 常時詰めている副伯領の兵士は百人と少し。だが建物自体は、千人近くを収容できる。これも古代帝国時代からの古いものだった。当時も兵舎に使われていた形跡がある。
 それでも公国軍全員を収容することはできず、一部の兵は床で寝ているという。現在、グレンの副官や執事と相談して、急ごしらえの寝台を増設するところだった。
 ニコラスの計らいか、入り口の重々しい扉は開け放たれ、中の明かりが漏れていた。
 入ってすぐはホールと呼べる、広い空間になっている。見張りの兵が三人いた。いずれも思ったより姿勢よく、表情にも隙が無い。
 グレンは鷹揚に彼らに「ご苦労」と声をかけると、すたすたと廊下を歩く。食堂は右手にある廊下を進んで、奥の方にあるのだが、既に知っているようだった。レジーナが領地周りをしている間に、グレンは兵舎に足を運んだのだろう。
「私を襲った奴は、怪我をしているはずよ。悪いけど、怪我人は確認させてもらう」
 廊下を歩きながらレジーナはそう告げた。
「そういや、短剣投げつけたんだっけ? どこに怪我させたんだ」
「お尻」
「…………なんでケツ?」
「足を狙ったらお尻に刺さっちゃったのよ。しょうがないでしょ」
「いいけど……まあ、訓練中に尻にケガする奴もいないだろうから、探しやすいな」
 グレンの言葉の途中で食堂に着いた。
 千人近くが一度に食事ができる場所だが、今はテーブルや椅子の数はとても足りていない。集まった兵士のほとんどは立って、ゆるやかに整列していた。
 レジーナたちに姿に気づき、ニコラスが駈け寄ってくる。
「全員集めました。各隊長に確認しましたが、揃っています」
 グレンは軽く頷いた。
「怪我を負っている奴は?」
「何人か。向こうに集めています」
「仕事が早いな。さすがだ」
 労うようにニコラスの肩を軽く叩き、僅かに微笑むグレンと、それを受けて誇らしそうに微笑み返すニコラスを見て、レジーナは信じられないような気持ちだった。
 女以外には無愛想で、人を寄せ付けない雰囲気の男だったが、ここまで変わった部分もあるのだ。
 あるいは、かつての自分が知らなかっただけかもしれない。当時のグレンとは、仕事の最中と、食事時くらいしか付き合いが無かったのだ。考えてみれば、自分が知らない面の方が多かったはずだ。
 グレンに対して好奇心が湧いてくるのを覚え、レジーナは驚いた。いつの間に、関わりたくないような類の人間から、人を惹きつけるような人間に変わったのだろう。二千の軍を任されているのは、伊達ではないということか。
 同時に脅威を感じた。召使いたちのグレンに対する印象も悪くはない。いや、かなり好印象を与えているように見える。いつか彼女とグレンの意見が対立した時に、グレンにつく人間が出るかもしれない。
 夫がいれば……。
 不安が沸く度に、夫がいればと思ってしまう。いつの間に、こんなに弱い人間になったのだろう。夫と出会う前は完全に一人で完成していたものが、夫と愛し合うようになって、彼の存在に侵食され、夫が不在となった今、彼がいた部分にぽっかり穴が開いている。愛は与えるものではない。やはり奪うものだ。
 一人で立って歩けたのに、一度二人で支え合って歩くと、不安でもう一人では歩けない。

 ニコラスに先導され、グレンとレジーナは食堂を横切って、怪我人が集まる一帯へと辿り着いた。
 途中、兵士たちの好奇の視線がレジーナに向けられるのが分かったが、敢えて彼らの方には視線を返さなかった。しかし意外にも、野次や囁き声などは聞こえず、これだけの男たちが集められているというのに、静かだった。公国軍の性格なのか、司令官であるグレンの指導なのか、統制は行き届いているようだ。
 ニコラスが差した場所には、七、八人の男たちがいた。
 手足に包帯を巻いた者、頭に包帯を巻いた者、見ただけでは特に怪我を負ってなさそうに見える者もいた。
 彼らはレジーナの──というより、隣にいるグレンの顔を見ると、一様に緊張をみなぎらせ、背筋を伸ばして礼を取った。
「これで全員か」
 グレンが兵士たちを一瞥し、ニコラスに問いかけると、彼は頷いた。
「はい、各小隊長に確認させました」
 ニコラスの返答を聞き、グレンは兵士たちに向き直る。
「怪我を負っているとこご苦労だが、いつどういう風に怪我を負ったのか話せ」
 グレンに顎で差された、一番端にいた壮年の男は小さく頷くと、時折言葉を詰まらせながら、行軍の最中、岩場で足を滑らせて、咄嗟に突いた手を挫いたと告げた。
 レジーナは男の話に耳を傾けながら、その場にいる兵士たちを見渡す。
 この中には貯水槽で会った男はいないように見える。あの男は顎と頬を伸ばした髭で覆っていたが、ここにいる兵士たちは、いずれも髭を剃っているか整えている。しかし、レジーナが男と立ち回ってから結構な時間が経っている。髭を剃る間くらいはあった。髭の印象が強烈過ぎて、他の部分はあまり覚えていない。
 次々と怪我の事情を話す兵士たちを、グレンはレジーナより露骨に凝視していた。
 今頭に怪我をしたいきさつを話している少年兵などは、司令官に無表情に見据えられ、完全に怯えているようだ。言葉はどもり、視線が泳いでいる。この少年兵が例の男でないことは確かなので、レジーナは彼に深く同情した。

 兵士たちはそれぞれ怪我を見せながら、理由を話したが、いずれも頭部、手足、背中などで、訓練中やこの山城への行軍の最中に負ったものだった。
 一通り話が終わると、グレンはレジーナを促し、兵士たちからやや離れて、小声で尋ねた。
「どうよ? あの中にいるか?」
「……分からないけど、多分、いないと思う」
「多分って……おい」
「ごめん、でもはっきり顔を覚えてないのよ。濃い髭を生やしてたから……」
 顔も覚えていないのにどうやって犯人を捜すつもりだなどと、嫌味のひとつも言われるかと思ったが、グレンは黙ってニコラスに手招きした。
「連中全員の尻を見てこい」
「は?」
 グレンの言葉に、ニコラスはあんぐりと口を開けた。それはそうだろうとレジーナも思った。
 少しの間沈黙した後、若い士官は再び口を開いた。
「あの……聞いてもいいでしょうか? 何故ですかね?」
「俺がやりたくないからだ」
「はあ……。そうすると服の上からじゃなくて……」
「もちろんだ。生のケツを確認しろ。傷を負っている奴がいたら、俺に知らせろ」
「いきなりそんな……。彼らに何て言えばいいんですか」
「そんなもん適当に言っとけ。痔の検査でもなんでもいい」
 釈然としない顔で黙り込むニコラスに、さらにグレンは言った。
「早くしろ。奥方様に関わる大事なことだ。何もお前への嫌がらせでやらせるわけじゃない」
「それはそうでしょうが……分かりました」
 納得いかない様子だったが、『奥方様』の一言が彼を後押ししたらしい。彼は怪我人たちの方に戻り、彼らに何事か告げると、やはり非常に嫌そうな顔になった兵士たちを連れて、裏口から出て行った。
 その哀れな男たちの後ろ姿を見ていて、急にレジーナは怒りが萎んでいくのを覚えた。
 貯水槽を調べ、自分を襲った男は、大公の軍の兵以外に考えられなかったが、どうもあの中に犯人はいないような気がする。
 あの男はもっとずっと粗野な印象があった。しっかりした軍籍を持つ者ではなく、どちらかと言えば、かつてのグレンや自分に近い、寄る辺の無いはみ出し者。
 あるいはこれも全てグレンの芝居なのか。犯人はここにおらず、既にどこかに匿われているのか。
 疑心暗鬼に捕らわれ、思考が空転し始めた。レジーナはそっと深呼吸して頭を冷やそうとした。
 食堂を見渡すと、兵士たちは各隊ごとに整列しつつも、近くにいる人間はときたま、少し離れた場所に二人で立っているレジーナとグレンに視線を投げてくる。
 もし犯人が見つからなければ、あるいは証明できなければ、グレンはどうするつもりだろう。ずっと無言で、兵士たちが出て行った戸口を見つめる彼を見ていると不安になる。
 この広い食堂に集まった二千近い兵士たち。その中に女は自分ひとりなのだと思うと、軽はずみなことをしてしまったという気持ちが湧いてきた。
 だが彼女は視界の中に、兵舎の料理人と共に何人か固まっている、見覚えの無い女たちの姿を見つけた。
 いずれも簡素な服を着ているが、二十代位の若い女たちだ。グレンが連れてきた料理人かとも思ったが、直感でそうではないだろうと感じた。
「ねえ、女の人もいるの?」
 レジーナが小声でグレンに尋ねると、彼は小さく頷いた。
「ああ。兵士じゃない手伝いの人間は他にもいる」
 娼婦か。
 さすがに直接この場で訊くのはためらわれたが、まず間違いないだろう。
 娼婦を従軍させているということは、レジーナは欲望の捌け口ですらないのだ。本当に小奇麗で物珍しい戦利品ということなのか。どちらがいいのかは測りかねたが、いずれにしてもやはり不愉快だ。彼女はそもそも娼婦という人種が嫌いだったし、それを連れて歩くような男たちもやはり嫌いだった。
「あ、言っておくけど、俺の愛人じゃないよ」
 とりなすようなグレンの冗談にも耳を貸さず、不機嫌に黙り込んだまま、考えを巡らせながら、ニコラスの帰りを待った。

 出て行った時より嫌そうな顔で帰ってきたニコラスは、こちらに近づいてきて、首を振った。
「尻に傷のある奴はいませんでした」
 予想していた答えだったので、レジーナはそう落胆しなかった。むしろこの後グレンがどう出るかの方がよほど気がかりだ。
「そうか。ご苦労。連中には何て言ったんだ?」
 からかうような口調のグレンに、ニコラスは苦々しく答える。
「特別な破傷風がここの土壌にあって、傷口から感染すると、尻に発疹が出るから検査をすると……」
「わははは」グレンは笑いながら、ニコラスの背中を叩いた。彼の癖なのだろうか。「いや、いい。やっぱ天性の嘘つきだな、お前は」
「恐れ入ります……」
 溜め息交じりに答えるニコラスを尻目に、グレンはすぐ側にあった椅子に足をかけ、食事用のテーブルの一つに乗り上がった。レジーナとニコラスは、あまりの行儀の悪さに目を剥く。
「公国軍の兵士たちよ」
 テーブルを演説台代わりに、グレンは声を張り上げた。兵士たちが一斉に司令官の方に注目する。
「この度はこの山奥のくそ田舎までの遠征、ご苦労だった」
(くそ田舎で悪かったわね。文句があるなら帰ってよ)
 思わず心の中で毒づき、顔をしかめる。すると隣にいたニコラスが囁きかけてきた。
「申し訳ございません。グレン様は、兵士たちに対しては、くだけた言葉の方が通りやすいと考えていらっしゃるので……」
「あ、いえ、本当のことですから」
 慌てて笑顔で取り繕うと、ニコラスも端正な顔を和ませた。そこに社交以上のものを感じ取り、レジーナの胸は一瞬高鳴った。
 目を逸らすと目の前に、テーブルの上からグレンの手が差し出された。
「あがってこい」
 いぶかしむ間も無く手を掴まれ、引き上げられようとする。レジーナは仕方なく椅子に足をかけ、グレンと同じくテーブルに上がった。何故か兵士たちから歓声があがる。
「ではここで、才色兼備の副伯夫人にもお言葉をいただこう」
 笑顔でグレンに促され、レジーナは何のためにテーブルに上らされたのか分かった。
 見渡す限り、男たちの好奇の顔で埋まっている。彼女は一度にこれほど大勢の人間の前で話すのは初めてだった。城下の領民全員を集めても二千はいないだろう。
 一歩間違えれば、ここにいる人間全て──隣にいる男やテーブルの下で見守っている男も含めて──が、敵となって、自分や部下たちと戦っていたのかもしれない。いや、これからそうなる可能性も皆無ではない。そう思うと空恐ろしいような気もした。
「公国軍の皆様」
 意を決して、レジーナは声をあげた。広い食堂は静まり返る。レジーナの低い声が朗々と響いた。
「ようこそお越しくださいましたとは、正直なところ申し上げられません。ですが、司令官様とは、平和的にお互いに協力するよう取り決めさせていただきました。私どもも可能な限りのことはさせていただきますので、公国軍勇士の皆様にも何卒領民たちの保護をお願いいたします」
 愛想の少ない手短な挨拶だったが、兵士たちは喝采を送った。
 レジーナに取ってあまり意味の無い言葉であった。それに対する賞賛もやはり意味は無いはずだったのに、何故か胸の奥が温まるような気がした。
「夫人は女の身で、わざわざこうして兵舎まで君たちを見舞いに来てくれた。その誠意に十分応えるように」
 レジーナの後を継いだグレンの声に、さらに兵士たちは腕を振り、声を張り上げた。
 ただ集まっただけの群衆がどれほどの力を持つか、集団の持つ力の一端を垣間見た。これだけの人間をグレンはまとめあげている。どれだけ精神に負担がかかるのだろう。
 そしてこの軍を擁する大公はさらに多くの兵士と領民を抱えている。国王や教皇はもっと。夫が参戦している戦争の規模を想像し、レジーナは眩暈にも似た不安を覚えた。

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