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山間の城の物語」
第一章 山間の城

11.静寂 (3)

2010.09.09  *Edit 

 生命のかけらもない死体は肉の塊だ。重い。
 しかしレジーナはその重みを愛しむように丁寧にイブを何度も抱え直し、この寒さの中、汗をかきながらやっと城の端の礼拝堂にたどり着いた。
 城にはいくつか礼拝堂があるが、ここは一番古く小さく、ほとんど使われない。
 結婚式の前夜、夫がここで一晩中祈りを捧げた。花嫁の父がその入り口を守り、花嫁は母と二人で、家で別れを惜しむのが慣わしのようだが、両親がいないレジーナは、自らが花婿が籠る礼拝堂の入り口を守った。
 翌朝、鍵を開けて扉を開き、その日から夫となる人を迎えに入った。信仰厚い夫だったが、連日の疲れには耐えられなかったのか、床にうつ伏せて熟睡していた。
 礼拝堂に入るのはその時以来だ。目を覚まして赤面する夫に笑いかけたあの日は、まさか侵略者に殺された侍女の亡骸を抱いて入ることになるとは、考えもしなかった。
 結婚式などの行事以外では、鍵はかかっていない。レジーナはどうしてもイブを床に横たえることができず、彼女を抱いたまま取っ手を捻り、肩で扉を押し開けた。
 腰のベルトから下げた角灯の明かりが、中にある小さな祈祷台と、二つの棺を浮かび上がらせる。戦う戦士たちの浮き彫りが施された石棺は、古代帝国時代の、この城の領主と弟のものだという。詳しくは聞いたことがないが、この地の英雄なのだろう。夫の遠い祖先だ。
 レジーナはそのうちの一方の上に、イブの遺体を横たえた。全裸のままではあまりに惨いが、服を着せている時間も無く、ショールを巻きつけて腰を覆い、その上からレジーナのマントを纏わせた。まだ治療を続けている副官と起き上がれないグレンに構わず、イブを一人でここまで運んできた。
 角灯をベルトから外して床に置き、弾んだ息を整える。小柄とはいえ、魂が抜けてしまった彼女の体を、二階の主寝室から、遠くはなれたこの礼拝堂まで運ぶのは骨が折れた。腕が痺れていて、しばらく関節が強張っていた。
 しかし、そんなことは何でもない。もう指先すら動かせない、動かそうとする意志すらもはや無いイブに比べれば。
 レジーナは埃の積もった床に、くず折れるように膝をついた。棺の上のイブに取りすがる。その体はどんどん温かみを失い、冷え込んだ夜の空気のように冷たい。
 鍛冶屋の娘は慣れない城勤めに苦労していた。侍女頭などの古い女官たちからは、市井の者はがさつだと、しょっちゅう小言をもらっていたようだが、不器用なりに真面目によく働く彼女は、年配の女中たちからも可愛がられていた。
 レジーナを慕って城にあがった少女だった。自分の為に公国軍と戦ってもいいと言った。身代わりとなってグレンに抱かれてもいい、そう言ってくれた唯一の侍女だった。
 それなのに、もう彼女はいなくなってしまった。ここにあるのは抜け殻だ。末期の言葉も残さず、イブは死んでしまった。一番最後に彼女が話した言葉を思い出して、せめて胸に刻もうとした。しかしどうしても思い出せなかった。
 魂が抜けて緩んだイブの幼い顔を見ていると、小さな苛立ちがこみ上げる。
 何故こんなことをしたのだろう。
 純粋で潔癖なイブは、愛する男がいながら、別の人間に処女を奪われることが耐えられなかったのだろうか。そうだとしたら、こんな軽率なことをする前に、何故レジーナに一言相談してくれなかったのだろう。勤めを解いて、こっそり麓の町に逃がすこともできたというのに。万一暗殺が成功したとしても、レジーナが知らないままでは、城内も混乱に陥るだけだ。司令官が暗殺されたとあっては、公国軍も自分たちをそのままにはしておかないはずだ。最悪の場合、二千の軍隊に城内の人間は虐殺されたかもしれない。何故、そんなことも考えなかったのだろう。
 だが、少女をそこまで追い詰めたのは、レジーナ自身だ。自分の不甲斐なさが、イブを極端な行動に走らせてしまった。
 グレンは今回のことは不問にすると言った。イブのことをどうするかは、レジーナが一人で考えなくてはならない。城勤めの優秀な鍛冶屋である、イブの父に何と言えばいいのだろう。こんなに喉に大きな傷口をつけた娘の遺体を返すわけにはいかない。
 そして夫に何と言えば……。
 胴着の胸元から、折りたたんだ夫の手紙を取り出した。
 思えば、この手紙が今日届かなければ、レジーナが食後に風呂に入ることもなく、あんな時間に寝室の前を通りかかることもなかった。彼女が通りかからなければ、そして寝室に思い切って入り込まなければ、あの重傷のままグレンは助けが間に合わずに、命を落としていたのかもしれない。
 石棺にもたれて座り込み、ランプの明かりでもう一度手紙を読み返した。
 いつ、どこにいても、たとえ肉体が滅びても、君を愛している。
 最後の一文を何度も目で追う内、涙がこぼれた。こらえていたものが堰を切ったように溢れ、レジーナはその場ですすり泣いた。
 文字となって手紙に込められ、形を取った意志は、何度でもこうして目を通して反芻できる。だが、今レジーナは、夫の声でその言葉を聞きたかった。放たれた声はその瞬間に形を失い、宙に溶ける。文字のように形を取って残ることはない。記憶という形の無いあやふやなものが残滓となるだけだ。
 それでもいい。声を聞きたい。声は生きている証だからだ。
 手紙の日付は二ヶ月前だ。今この瞬間、夫がどうしているかまでは伝えてこない。遠く離れた異教の地で、同じ満月を見上げているのか、あるいは既にイブと同じように永遠の沈黙の内に土の中にいるのか。
 夫は今どこにいて、どうしているのだろう。この世のどこかにいたとしても、今この場にいなければ、存在しないのと同じだ。不安で胸が潰れそうになる。
 夫が出征して以来、初めて声をあげて号泣するレジーナを慰める者は誰もいない。
 丁寧な字で綴られた手紙も、レジーナの傍らにいる死者たちと同じく沈黙しか伝えてこない。
 夫を失えば、自分はこの世でただ一人、その前で涙を流せる人間を失ってしまう。もう二度と人前で泣くことはできなくなってしまう。こうして一生、一人で泣きじゃくることになるのだ。
「助けて……どうしたらいいの……。お願いだから帰ってきて……」
 しんとした静寂の中、死者に囲まれて、レジーナは途切れ途切れに呟きながら泣き続けた。 
 

 涸れることはないと思っていた涙も、いつしか止まった。どのくらい泣いていたのか分からない。古い礼拝堂の小さな窓から、入ってきた時より動いた月の光が冷ややかに差し込んでいた。
 レジーナは緩慢に立ち上がり、イブを見下ろした。
 半開きの目を閉じてやり、口元から滲んだ唾液と血液を服の袖で拭う。色を失い、紫に変じたその唇はどうしても閉じさせてやることができなかった。
 年の割りに子供のような、小さな手を胸の上で組ませてやろうと持ち上げると、彼女がまだしっかりと右手に短剣を握り締めているのに気づいた。
 死者の遺体は、命を失ってしばらくすると強張り始める。まだ硬直が始まるには早いが、イブの指を短剣から外すのには、一本一本指をほぐしていかなければならなかった。
 公国軍が初めて訪れた日、グレンの胸に埋め込む為に磨き込んだ、長年愛用していたレジーナの短剣だ。あの日、グレンに取り上げられて床に放り出された後、行方が分からなかった。給仕も侍女たちも知らないと言っていた。恐らく、たまたまイブがあの後小食堂に片付けに入り、手に入れたのだろう。
 レジーナは短剣使いではないが、冒険者だった頃から、常に身につけて愛用していた武器だ。これのおかげで命を救われたことも何度となくある。剣を取り上げられた時、寝ている時の夜襲の際にはこれで身を守った。長剣を抜くほどの時間や空間が無い時は、咄嗟に抜ける短剣で応戦した。
 レジーナは短剣で自分の服の袖を裂くと、イブの喉に口を開けた忌々しい傷口に巻きつけた。
 服の裾の部分も短剣で裂き、短剣の刃の部分に巻いて覆う。ベルトの留め具に角灯の代わりに短剣を下げ、背中側に回した。
 床から角灯を持ち上げ、もう一度イブを見下ろす。額を撫でて栗色の髪をどけると、そこに口づけした。死者の苦い皮膚は冷たかった。
 明かりを手に礼拝堂の扉を開けて、外に滑り出る。屋根の無い回廊の上から、冴えて冷たい満月の光が降っている。完全な円を描いた月の姿は夜空に穿たれた穴のようだ。
 満月を死んだ女に喩えた詩人がいた。彼はやはり天才か皮肉屋だ。名前は思い出せなかった。
 目を閉じた。冴え冴えとした月明かりを瞼の裏に感じた。
 夜が明ける前に、自分ひとりでイブを埋葬しなければ。
 だがその前にすることがある。

 初日に短剣を取り上げられてからは、まるで牙を抜かれた獣のようだった。
 公国軍とグレンが与える束の間の平和に寄りかかり、その先にある危機まで考えようとしなかった。
 いつかグレンは言っていた。自分たちが敗れて、伯爵領の人間が攻め込んできたらどうすると。くだらない話のついでに出たことだが、グレンの軍がここを拠点に伯爵領に攻め込むことは間違いない。そうなれば嫌でも戦乱に巻き込まれることになる。公国軍の規模からして、彼らが負ける可能性は低いが、戦火を交えた時点で、この副伯領も、伯爵が忠誠を誓う王家とその傘下の諸侯を敵に回し、大公の勢力に組み込まれることになる。
 間道が完成するまで一年。その間に遠征が終わらず、この地の裏切りが遠くの戦地に伝われば、諸侯と王に同行している夫も芳しくない立場に追い込まれるだろう。身の危険が無いとも言えない。
 副伯は王家に忠誠を誓っている。大公の行っていることは、王家への反逆だ。王の臣下である夫の代わりとして、自分がするべきことは何だ。領地の安全を守る為に、進んで膝を屈することだけか。
 何の為に戦って鍛えてきたのか。何の為に侍女や年寄りにまで、訓練を施したのか。イブのような少女にまで苦痛を強いる為ではないはずだ。
 エドワードたちの助けを借りても、どこまでできるか分からない。だが勝算は皆無ではない。それなら、なすべきか、なさざるべきか悩むより、自分の考えるべきことは、どうやって成し遂げるかだ。
 今、この手に戦う牙を取り戻した気がする。
 完全に満ちた月光に全身を洗い流された気分で、レジーナは寝室へ通じる階段を上った。
 悔しいし情けないが、グレンに対してはどんなに心を凍らせても、触れ合えば溶け出してしまう。これ以上は自分の意志ではどうにもできない。ならば元を断つしかない。後戻りできないところまで。


 寝室に戻ると、まだ残っていた副官が寝台に横たわったグレンに包帯を巻きつけているところだった。思いのほか、治療に時間がかかったらしい。
「おい、気持ち悪りーな。変なとこさわんな」
「私だって好きでやってるんじゃありません。文句言うなら、怪我を負う場所には気をつけてください」
 互いにのんきなことを言っているところを見ると、グレンの容態はかなり落ち着いたようだ。
 その様子を見ながら、レジーナは早くも先ほどの決心が緩んでくるのを感じた。たった一人で孤独に、無言の内に固めた深刻な決意も、他人が集まって作り出す現実の前には、力なく色褪せてしまう。
「私が手伝いましょうか」
 レジーナが声をかけると、振り向いた副官は微笑を浮かべた。
「申し訳ございませんが、お願いできますか? 司令官様は私では不満なようですので」
「当たり前だ」
 命の恩人である部下に向かって、目も合わせずに言い放ったグレンには、先ほどの息も絶え絶えだった様子は微塵も残っていない。出血が多かった為か、顔色はまだ良くないが、もう命の危険は無さそうだった。
 副官は立ち上がり、レジーナに包帯を手渡すと、床に散らばった得体の知れない薬や、鋏などをまとめて抱えた。
「それではグレン様、出血と表面の傷は塞がりましたが、内臓の傷が塞がるのには時間がかかります。安静にして、ゆっくりお休みになってください」
「分かった。助かったよ」
 首だけ上げ、グレンは部下に頷いてみせた。副官も唇の端を吊り上げる。
「せめて今夜は動き回らずに、安静にしていてください。動くとまた中の傷が開きますから」
「分かった」
「いいですね、くれぐれも無駄な運動、特に腰を動かすような運動は控えて安静に……」
「しつけーな。一度言えば分かる。さっさと消えろ」
 副官は薄笑いを浮かべ、挨拶をすると部屋を出て行った。

 何か話さなければ、沈黙が重過ぎる。レジーナは包帯を手に、横たわるグレンの元で屈みながら口を開いた。
「仲いいのね。彼が本命の恋人?」
「……次言ったら殺すぞ。気持ちわりーな」
「普段大きな口叩いてるから、こんな時に存分にからかわれるのよ」
 副官が不器用に巻きつけようとして緩んだ包帯を一度解く。傷口には清潔な布が押し当てられていた。何気ない様子を装い、布をそっとどけてみる。傷口には縫い跡があり、潰した薬草が塗りこまれていた。だが出血は完全に止まったようだ。
「よかった。塞がったみたいね」
「よかねーよ。あいつ、麻酔も無しにブスブス縫い物しやがって。痛えっつーの」
 レジーナは苦笑いだけ返し、包帯を巻きつけ始めた。確かに腰は包帯を巻きにくい。
「ちょっと、お尻浮かせてよ。包帯が巻けないじゃないの」
「なんだよ、お前まで。怪我人に向かって……」
 グレンと共に四苦八苦しながら包帯を巻きつける。傷口は脚の付け根に近いところにあり、包帯を巻こうとすると、どうしても彼の陰部が目に入った。力無く垂れているそこを明かりの下で見るのは初めてかもしれないと思い、顔が少し赤らんだ。包帯を巻くにも、陰毛に手が何度も触れ、徐々に動きが強張ってくる。今さらこんなことでグレンを意識して動揺してどうする。
 適当に包帯を巻きつけるときつく縛り上げた。
「はい、終わった」
「……お前もいい加減不器用だな」
「文句言うなら自分でやんなさいよ」
 言い返したものの、確かに綺麗に巻いたとは言いがたい。結び目だけきつくて、あとはところどころ緩んでいる。
「いや、いいよ。ありがとう」
 首を振って苦笑し、枕に頭を預けたグレンの言葉が胸の奥に沁みた。グレンから感謝の言葉を聞いたのは、初めてのような気がする。昔は誰に助けられようと、ありがとうなどと言ったことはなかった。
 ほら、まただ。凍らせたものが溶け出し、隙間ができてしまう。自分の意志はこんなに弱かったのだろうか。
 目を開けたまま幾分寛いでいる様子のグレンを見下ろして、レジーナは立ち尽くした。  
 本当にこの男を殺せるだろうか。
 グレンを今夜仕留め、怪我を理由に寝込んだことにすれば、明日一日くらいは時間が稼げる。その間にエドワードに使いを出し、召使いや侍女にも話を通す。
 夜伽の最中にイブが司令官に殺されたと話せば、レジーナが強引な命令をしなくとも、侍女たちは義憤に立ち上がるだろう。
 城下を封鎖し、明日の夜の兵舎と士官の食事に毒を混ぜ、夜の間に総出で生き残りを屠る。
 完璧とは言い難いが、不可能ではない。公国軍も、まさか今さら自分たちが襲われるとは思っていないだろう。油断しているはずだ。レジーナ自身も今夜イブの死を迎えるまでは、彼らの暗殺など考えてもいなかった。
 グレンから目をそむけ、床を見渡す。グレンとイブの流した血痕がところどころに残り、レジーナがグレンに手渡したショールは真紅に染まって、床に流れるように落ちていた。

 寝転がっていたグレンが、やおら上半身を起こした。その動きはゆっくりではあったが、怪我人とは思えないほど滑らかだった。副官のかけた魔術が効いているのだろう。
 果たしてグレンを仕留められるだろうか。
 イブの死に顔が脳裏に蘇った。寝所で隙を狙おうとしたイブの行為は、初日にレジーナが考えていたことと同じだ。あの夜、暗殺を諦めずに、もう一度寝台でグレンの命を狙えば、今夜のイブのように返り討ちに遭っていただろう。
 激しい後悔に襲われた。レジーナが副官を呼んでくるまでは、グレンは本当に半死半生だった。あの時なら、労せず始末できたはずだ。何故、状況もよく確かめずに副官を呼んで、彼を助けてしまったのだろう。
 まだグレンは怪我で存分に動ける状態ではないとはいえ、魔術のおかげでかなり回復しているようだ。今戦って果たして勝てるだろうか。手負いの彼に負けることはないにしても、一撃で仕留めそこない、取り逃がして助けを呼ばれたらそれでもう失敗だ。
 いつも自分のすることは一歩遅い。
 こんなことになるなら、初日、グレンの暗殺に失敗した後でも、宴会の際に葡萄酒に毒を混ぜて、強引に作戦を進めてしまえばよかった。そもそも全面降伏する前に、この堅固な城を盾に、伯爵領に援軍を頼みながら戦うべきだった。
 ──いや、今そんなことを言っても仕方ない。
「少し座れ」
 グレンは上半身を起こしたまま、掛け布で腰から下を覆い、枕置きに寄りかかっていた。顎で軽く差された彼の隣にレジーナは素直に腰を下ろした。短剣を隠し持った背中に気づかれないように、体の正面をグレンの方に向ける。
 彼は体を捻り、寝台の脇の小さな卓から水差しを取り上げると、手拭いに降りかけて湿らせ、レジーナに手渡した。
「顔、冷やしておけ。腫れるぞ」
 受け取った手拭いを、レジーナは左の頬に当てた。左目の視界はかなり戻ったが、顔はもう腫れ始めている。ひんやりと冷たい、湿った布の感触が心地よかった。
「殴って悪かった」
 向き直ったグレンが右手を伸ばし、頬を押さえたレジーナの左手に重ねた。
 触れられてはいけない。
 だが、今夜のこの状態では、さすがに何事も起こらないだろう。グレンは治りかけているとはいえ重傷だし、レジーナは部下を亡くして、とても欲望に火がつくような気分ではない。
「ほんとよ。確かめもせずに、馬鹿力でいきなり殴るんだもの。痛いなんてもんじゃないわよ。顔がひしゃげるかと思った」
「すまん。美人が台無しだな」遠慮せずに言い募るレジーナに、グレンは詫びながら苦笑いを見せた。「顔はともかく、鼓膜がなんともなくてよかった」
 優しくしないでよ。これ以上私の心をかき回さないで。 
 せり上がった熱い衝動をこらえる為、レジーナは俯いた。
 グレンの言葉はそれだけだった。
 面白半分に抱こうとし、そして殺してしまった哀れな少女への詫びなどない。
 だがレジーナもそれを彼に求めることはできなかった。自分の身を守る為に返り討ちにした少女に対し、グレンが詫びるはずもない。
 むしろ条件をつけて降伏した身でありながら、侍女を管理できなかったレジーナの失態ととらえられてもおかしくない事態だ。部下全員が同じことを考えているとは限らない、馬鹿はどこにでもいるという、グレンの言葉が甦った。
 イブを失ったことは悲しい。彼女が哀れでたまらないし、彼女を追い詰めてしまった自分の至らなさを悔やむ気持ちはずっと渦巻いている。だが心の隅に、イブの愚かな行為を責める乾いた気持ちがあった。
 それ故か、グレンに対して、イブを殺されたことへの恨み、彼をイブの仇と思うような気持ちはそれほど強くはなかった。
 だからこそ、彼を刺し殺すには熱い衝動ではない、冷徹な決意が必要になる。

 背中の短剣を抜いて、一動作でグレンの喉を切り裂く。彼がイブにそうしたように。
 一瞬の内に溢れる葛藤さえ呑みこんでしまえば、後は多分、簡単だ。
 だがその後に控える出来事を考えると頭が痛い。士官たちに気取られないように侍女と召使いを起こし、明日の夜の作戦を練らなければならない。先ほど微笑みを交し合った副官や、あのニコラスも含めて、城内にいる大公の兵は、誰一人この城下から出さずに始末しなければならないのだ。とてつもなく困難で陰惨な作業になるだろう。
 かといって、グレンを殺さずにこのままにしておくとしても、イブをどうにかしなければならない。あの遺体を目にすれば、誰もが彼女が殺されたことに気づくだろう。イブに汚名を着せたくないなら、そして召使いたちの疑惑を買いたくないなら、レジーナ一人でイブを埋葬しなければ。どこに。どうやって。人間を埋めるのは重労働だ。場所もどこでもいいというわけにはいくまい。
 それに他の侍女たちやイブの父に、何と言おう。逃げ出したと言うべきか。それとも自分が逃がしたことにするか。いずれにしても、グレンとも口裏を合わせなければいけない。それはイブに対する裏切りのような気がした。
 そして今日グレンと公国軍を始末しないのなら、やがてやってくる危機はどうする。
 このままでは大公の作り出す流れに甘んじて巻き込まれるだけだ。逆らうなら今しかない。グレンが怪我を負っている今夜こそ絶好の機会だ。
 どうする。

 唐突に激しい虚しさに襲われた。
 右を見ても左を見ても、上から無数の砂袋が降ってくるような感覚を覚えた。どの方法を取ろうとも、なすべきことが多すぎて、もう自分の手には負えない。
 夫が生きているかどうかも分からないのに。いつまでこんなことを続けなければならないのだろう。夫がもういないなら、彼が言うように、領地を捨てて元通り自由になりたい。
 疲れた。
 レジーナは目を閉じてうなだれたまま、力なく前に体を倒した。頭の先がグレンの左胸に軽く当たる。彼の呼吸に合わせて、レジーナの頭もゆっくりと揺らぐ。
 グレンの左手がレジーナの頭に触れ、静かに撫でた。それは思いやりや気遣いがこもっているような、優しい手つきではなかった。泣いている子供や腹を空かせている小動物に対して、反射的に湧くような、およそ薄っぺらい哀れみしか感じられない、気のない動きだった。
 彼は若いイブを殺したことについて、良心の呵責など欠片ほども感じていないだろう。そしてレジーナに対しても、部下を失わせてしまって、申し訳なく思う気持ちなども持ち合わせていないはずだ。
 それでいい。
 愛も信頼も優しさも、まっすぐに自分に向けられる感情など、今は煩わしいだけだ。そっぽを向いている他人の、空気を隔てて伝わるぬるい体温が感じられれば、それで十分だ。完全な孤独でないことを思い出させる程度のものでいい。
 無関心に限りなく近い、色も熱も持たない他人の哀れみに身を浸しているのは、なんて心地いいのだろう。レジーナはその虚無的な冷たさと、グレンが規則的に髪を撫でる感触を沈黙の内に味わっていた。
 やがてグレンの手の動きも止まる。
 眠ったのかと思い、レジーナは僅かに顔をあげて、グレンの顔を覗いた。
 彼の目はしっかりと開き、正面の壁を見つめながら、何かを考えているようだった。
 レジーナは再び頭の先をグレンの体に触れさせ、視線を下に落とした。目をつむってこみ上げるものをこらえる。
 今夜は抱き合うこともないだろう。それならもう用は無いはずだった。

 室内はしんと静まり返っていた。
 頭の先に筋肉の弾力と鼓動を感じる。先ほどより幾分体温も上がってきているようだった。彼は間違いなく生きている。礼拝堂で古の死者と共に置き去りにしてしまったイブとは逆に、グレンは生命力を取り戻しつつある。それはありがたくないことかもしれないのに、冷たい安堵が満ちてくるのを止められなかった。 
 このままでいいわけはない。
 用が済んだらここから出なければ。
 グレンもこうしているのは疲れるだろう。
 あるいは用が済んでいないのなら、背中に手を回して短剣を抜かなければ。
 でも、もう少しだけ、足を止めて、時間も無い、煩わしさも無い、死に近いほどの冷ややかなこの静寂に身を浸していたい。
 もう少し。もう少しだけ。


<第一章 終>

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