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山間の城の物語」
第二章 千の目

15.星の道 (2)

2011.03.10  *Edit 

 久しぶりに冷える夜だった。
 星屑を抱いた夜空と、切り立った崖の下、斜面に向かって広がる黒い森の間から、翼を持つ影が飛来する。青白い月明かりの下に、徐々に浮かび上がるその姿は、灰色の梟だった。
 シェリルが革の腕当てをつけた腕を差し上げると、賢そうな梟は大きな羽を畳み、器用に腕当ての上に留まる。
 左腕にずしりと鳥の重みがかかった。顔を顰めるシェリルを森の賢者は丸い目でじっと見つめている。
 シェリルはポケットから取り出した、レジーナから預かった手紙を、梟の脚に巻きつけた。術で呼び寄せた梟はおとなしくしているが、何しろ大きな鳥なので重い。おまけに不器用なシェリルには、片手で折り畳んだ手紙を結びつけるのは、至難の技だった。
「ちょっと、もう動かないでよ」
 思わず呟いたが、梟は動いてはいない。主の心境を感じた彼は、不満を表すように小さく鳴いた。
 苦心して手紙を結びつけたあと、彼女は賢い鳥の頭を、とりなすように撫でてやった。別に鳥は頭を撫でられても嬉しくないらしいが、彼を労わるシェリルの心を伝えるには、そうするのが一番いいと思ったからだ。
「お願いね」
 手紙を預けたレジーナと同じ台詞を呟くと、梟はもう一度低く鳴いた。乾いた夜空に心地良く響く。
 シェリルが穏やかに腕を振る。梟は音を立てて羽ばたき、来たときと同じ闇の中へと飛び去っていった。
 梟は、シェリルと馴染みのある麓の町の手紙と代筆のギルドへと飛ぶ。ギルドの主人はシェリルの梟をよく知っていて、彼女が届けた手紙を丁寧に扱ってくれる。
 手紙はそれから、行商や冒険者、旅人たちの手を経て、遠い異郷の地へと運ばれる。シェリルがまじないを施した手紙は、受け取った者に、それがまるで自分の近親者への手紙であるような想いを抱かせるはずだ。だれも無下には扱えない。
 だから手紙は恐らく届いているはずなのだ。
 しかし返事は一度しか来ていない。
  
 できることなら、シェリルも手紙を書いて届けたい。副伯に知らせたいことはたくさんある。
 けれど殺伐とした戦場にいる副伯が、最も待ち望んでいるのは、シェリルではなく妻のレジーナの手紙だろう。
 そうして彼ら夫婦のために、できることをしたい。ずっとそう思っていた。
 愛する人が幸せであること。シェリルの望みはそれだけだ。自分の隣にいて欲しいとは思わない。彼がそれで幸せだというのなら話は別だが、彼は妻を深く愛している。だからふたりを見守り、その力になることが、シェリルがなすべきことであった。
 切ないながらも、そんな心境に至ることができた自分を、彼女はずっと誇りに思っていた。
 だが、愛するだけでは満たされない。どうして愛されなければだめなんだろう。
 あのサラのように、副伯を心の中で愛し、大切にしながら、肉体だけ男たちの中に投じてみる。
 それも考えたが、まだとてもシェリルにはできそうにない。愛していなくとも、男性に求められるのは確かに一種の幸せだ。だがサラのように、どんな男にでもというほど、自分は間口が広くはないらしい。そして、だからといって、副伯を愛するだけで満たされるほど、貞節と献身に徹することもできない。なんとも中途半端だ。 
 すべてのしがらみを一度捨て、かつての恋人を探して、東の地へ戻ると言うことも考えた。しかし。
 シェリルは城壁に戻りながら、乾いた笑いを漏らしたくなった。

 今シェリルがいるのは、東側の市壁だ。かつて大公の兵士に襲われた、兵舎がある西側とは反対側にある。
 夜に外に出るには、まだ若干の不安があったが、兵舎から離れたこちらの市壁なら、恐らく問題は無いだろう。城内の人間は、シェリルが不思議なまじないを使うことを知っているが、梟を呼ぶようなところは、あまり見られたくない。人気の無い、夜中まで待つしかなかった。
 城壁からは、東側の山の斜面が見える。今は闇に包まれていて見えないが、昼間には遥か向こうに辺境と王領を隔てる、四年ほど前にシェリルが越えてきた山の稜線が見えるはずだ。
 その向こうにいると信じていた──いや、祈っていた男と、この山間の城で再会するなんて。
 いつか彼にもう一度会いたい。そのために再び王領へ旅立つ。それは夢想に近い、シェリルのささやかな夢、最後の逃げ場だった。しかし本人が他ならぬこの地、しかも大公の軍にいたのでは、その目的は根元から覆る。東に旅立っても、もはやそこには何もない。幻の目的さえも。
 彼との再会はいつも夢見ていた。だが、夢に終わるだろうとも分かっていた。まさか本当に再び会うことがあるとは、思いもよらなかった。
 しかし、彼女が夢見ていた形とは全く違っている。夢は夢のまま終わっていればよかったかもしれないのに。現実はいつも皮肉だ。
 以前にも似たようなことがあった気がする。彼はいつも、シェリルの夢を、最も甘美で残酷な形で、粉々にしてくれた。おかげでシェリルは、夢想に逃げ込むこともできなかった。

 今朝、シェリルはいつも通り起床して、庭園の草を摘みに部屋を出た。
 廊下を歩いている途中で、彼女の心臓は大きく弾んだ。反対側から歩いてきたのは、ロデリックだった。
 狼狽し、何を言えばいいのかと戸惑うシェリルの前で、ロデリックはそれまでの通り、やや強張った不器用な笑みを浮かべた。何かを問うようなシェリルの眼差しを、受け止めることもない。
「おはようございます」
 それまでに交わしてきた、普段通りの礼儀正しい挨拶を残し、彼はそのままシェリルとすれ違った。彼女は思わず振り返り、ロデリックの背を視線で追ったが、彼は振り向きもしなかった。

 ゆうべの出来事は夢だったのかと思えた。
 そうではない証拠は、指で触れられて僅かにひりひりと痛む陰核や、朝方に用を足した時に、秘所から僅かに溢れ出した体液の残滓だけだ。
 今まで忠実な副官を務めてきた彼が、一体何故、昨夜シェリルの前で正体を明かしたのだろう。
 ひとりで泣いていないで、一緒に東に戻ろう。
 彼の囁きが、まだ耳に残っている気がする。
 だがあれは、夢だったはずだ。一瞬のまどろみのうちに見た、永遠と呼べるほど長く、儚い夢だった。
 彼が本当に、かつての恋人だったシェリルを連れ、軍を捨ててこの城を出ることはありえるだろうか。
 彼が何を考えているかなんて、昔からよく分からなかった。だが近くにいる限り、既に終わったことでも、期待せずにいられない。
 乱れた気持ちのままこの城にいるより、一度離れた方がいいのかもしれない。大公軍の駐留は一年ほどと聞いている。その間だけでも、城を出るのだ。
 シェリルが目的としていた、かつての恋人は東にはいない。だがさらに東に歩き続ければ、唯一神の信徒たちと異教徒が戦う、東の王国の戦場に出る。
 副伯と彼の軍がいるはずだ。彼の無事を手紙やまじないなどではなく、この目で確かめてくるのだ。
 朝方、寡黙な庭師の隣で草を摘みながら、シェリルはほぼそう決心していた。レジーナと副伯のために彼女ができそうなことは、もうそのぐらいしか思いつかない。
 だが、夕方、レジーナから手紙を預かった時、縋るような目でシェリルを見たレジーナを前に、とても言い出せなかった。明日、麓の町に向かうだけだと告げると、レジーナは心底安堵したようだった。
 レジーナは、大したこともできない、グレンに比べて遥かに無力なシェリルを必要としてくれている。
 彼女がイブの身に起きたことを、ついにシェリルに語らなかったことは、大きな落胆を呼んだ。
 でもそれでよかったのだ。
 友人であれ、侍女と女主人であれ、同じ人間ではありえない。すべてを分かち合い、依存しあうことは危険だ。
 イブのことはレジーナの問題なのだろう。兵士からの陵辱がシェリルの問題であるのと同じことだ。重荷や苦しみを共有することで、絆が深まることもあるだろう。だが、すべてを分け合い、自分と彼女との境界が曖昧になるのは、ふたりの関係を壊すことにもなりかねない。友人だからといって、シェリルのことを一から十まですべて分かってくれるわけではない。同じ出来事を経験しても、感じ方や捉え方はきっと違う。
 レジーナがイブのことをシェリルに話せないというのなら、シェリルがなすべきことは、無理やり聞き出そうとすることではなく、レジーナに信用されなかったと己を嘆くことでもなく、イブのことを語れないレジーナを、そのまま受け入れて助けになることだ。
 臆せず、イブのことについて沈黙を守ったレジーナを、やはり強靭な女性だと尊敬した。彼女は脆いが、シェリルよりずっとしなやかな心を持っている。そんな女性だからこそ、副伯のそばにいて、一生彼を支えてあげて欲しい。
 梟が既に飛び去った夜空を、目を凝らして見つめた。北東に向かって、夜空に星屑の川が流れている。夏の夜は短いが、空気が澄んで星の川がよく見えた。今頃副伯も、天幕の外で同じ空を眺めているのかもしれない。
 異教の地で見える星空も、これと同じだろうか。星の道を辿って、副伯の元へ辿り着けたらいいのに。

「散歩?」
 背後で突然聞こえた声に、ぎょっとして振り返る。
 ほとんど足音を立てずに近づいてくるのは、ロデリックだった。服の下、脛に括りつけた短剣に手を伸ばしかけたシェリルは、驚きを飲み下して、さりげなく姿勢を元に戻した。 
「眠れないので」
 言葉少なに答えたシェリルは、切ないほどの既視感を覚えた。
 随分昔、同じことがあった気がする。あの時も、青年は彼女が見知らぬ吟遊詩人を装っていた。シェリルがいくら訴えかけるように彼に視線を送ろうとも、彼はさっぱりと無視していた。
「今日は涼しいっていうより、寒いぐらいだからね」
 普段ロデリックが喋る、堅苦しい口調とは一転した、くだけた柔らかい言葉で彼が答える。歩み寄ってきた青年は、シェリルの隣に並んで城壁にもたれ、同じように星を見上げた。
「山の中だから、星が綺麗に見えるね。公都は夜遅くまで結構明るいから、星の道はあまりよく見えないんだ」
 一般には広く『星の川』と呼ばれている、細かく小さな星が細長く続く帯を、彼がシェリルと同じく『星の道』と呼んだことに、彼女の胸は小さく波立った。
 明らかに、今朝廊下ですれ違った時の彼とは違う。シェリルがごく個人的に知る彼の姿だった。
「へえ……」
 しかしどう答えたものか分からず、シェリルは結局平凡な相槌を打った。
 ロデリックもそれきり黙ったままだった。
 シェリルはこっそり彼の横顔を盗み見る。彼は相変わらず首を傾けて、降り注ぐような夜空に見入っているようだった。やがて彼は天を見つめたまま、おもむろに口を開く。
「でも、あまり星が見えすぎると、怖いね。無数の瞳に見られている気がするよ」
「そうだね」
 シェリルはもう一度頷いた。それは彼女が少女の頃、彼と一緒に旅をしていた頃から、星空を見上げるたびに感じていたことでもあった。野外で、シェリルに覆いかぶさる彼の肩越しに、無数の星空がよく見えていた。
 もう何年も前の話だ。

「元気そうでよかった」
 心地良く冷たい静寂の後、ロデリックはシェリルを振り向いた。星明りに照らされた顔は、いささか照れくさそうだ。そんな彼を見ることは、以前にもあまり無かった。
 ゆうべ、衝動的に体を重ねただけで、ロデリックは『彼』としてシェリルとの会話を放棄したわけではなかったのだ。
 安堵と切なさが満ち、彼女は涙ぐみそうになった。
「あまり元気でもないけど……」
 ロデリックが声をかけてくれたのは嬉しかったのに、ついシェリルはそんな答え方をした。昔から、彼の前では素直になれない。
 ロデリックの顔が曇る。シェリルが数日前、兵士に陵辱されたばかりだったことを思い出したのだろう。
 それに、ゆうべ短剣を抜いたグレンに脅されていたとはいえ、彼の目の前でロデリックに体を愛撫され、快楽の絶頂に達してしまったことは、非常な恥辱であった。そんなことをしておいて、『元気でよかった』などと声をかけてくる彼も、たいがい失礼で無神経である。
「まあ……色々あったみたいだね」
 沈黙の後、彼は気まずそうに呟いた。どのようにも解釈できる、曖昧な台詞だ。
「あなたもね」
 自分のことは語らず、シェリルはロデリックに水を向けた。
 しかし彼の方も口を開いて話し出すことはなかった。昔から、自分のことに関しては話したがらない男だった。
 再び沈黙が漂う。一緒に旅をしていたかつては、ふたりはそうして黙っていることも多かった。どちらも、喋っていなければ気が済まないという性質ではなかったからだ。むしろ上滑りの会話より、沈黙を好んだ。
 だが勿論、今は同じような優しい静寂は無い。どちらも互いに尋ねたいことがありながら、相手に遠慮して踏み出せないでいる。それが全く見知らぬ男女であれば、お互いを意識することになり、恋や愛に発展することもあるかもしれない。しかし既にそれを経験したシェリルと彼の間では、遠慮という気遣いを挟んだ沈黙は、ただ気まずいだけだった。

 澱んだ沈黙に耐え切れず、根負けするようにシェリルから口を開いた。
「あなた、東に戻ったんじゃなかったっけ? どうして辺境の大公の軍に入ったの?」
「うーん」ロデリックは曖昧な表情で首を傾げる。「どうしてかといえば、今の司令官に誘われたからなんだけど……」
「グレン様に憧れて?」
「ちょっと、勘弁してよ。どんなに世の中嫌になったって、あんなのに憧れないよ」
 彼は非常に嫌そうに首を振った。
 昨夜の言動といい、どうやら彼は、副官という立場とはいえ、グレンに本気で心酔しているわけではないらしい。かつての彼は、表向きはどうあれ、本質的には誰かにぶら下がるような男ではなかった。いまだロデリックが、他人に存在の理由や価値観を委ねていないということが、シェリルには何故かとても誇らしかった。
 彼女は質問を変えて、もう一度尋ねた。聞きたいことはたくさんあった。
「今度はロデリックって名乗ってるの?」
 彼は黙って小さく頷く。シェリルは続けて訊いた。
「本当の名前?」
「……前から思ってたけど、本当の名前っていう意味がよく分からないな。僕たちにとっては、名前ってのは単に呼び名でしょ。本当だとか偽りだとかいうことに意味は無いと思うけど」
 また、屁理屈ではぐらかされる。シェリルは憮然として、城壁からの風景に目を戻した。夜には森から梟などの夜の鳥の鳴き声が聞こえることもあるが、今日は静かだ。死に絶えたような夜だった。
 彼と初めて知り合ってから四年ほど、つかずはなれず過ごしてきたが、かつて一度も名前を教えてくれたことがなかった。年月を挟んで久しぶりに再会したというのに、まだ教えてくれる気が無いのだろうか。
 ふと、シェリルの頭の隅に、『僕たちにとっては』という彼の言い回しが引っかかった。
 確かにシェリルや、ロデリックと名乗る男を含む人間には、名前は単純に呼び名である。精神体としての人間は小さすぎて、存在そのものに名前を冠することができない。だがそうでない存在もいる。名前が存在そのものの本質を差す、巨大で確固たる精神体を持つ強大な精霊や、あるいは……。
 再び口を開いたロデリックが、シェリルの思考を中断させた。
「君のいう本当の名前っていうのが、親からもらった名前っていう意味なら、その通りだよ」
 彼の言った意味がすぐに分からず、彼女はもう一度青年に目を戻して問いかけた。
「え? よく分からない。ロデリックっていうのが、親からつけられた名前なの?」
「そう」
 シェリルはぽかんとしてしまった。
 彼と一緒にいた頃、何度尋ねても教えてくれなかった名前を、離れた後、軍隊などに入ってあっさりと名乗っているとは。かつての自分たちの関係が薄っぺらく感じられて、いささか傷ついた。
 ただ、それをそのまま口に出して、彼に訴えるのは悔しかった。
「軍に入ってから、そう名乗ってるの? 軍隊なんて、一番あなたに縁が遠そうだけど」
「まあね。僕もそう思う」シェリルの微かな皮肉を受け流すように、ロデリックは微笑んだ。「でも一兵卒じゃないからね。どっちかっていうと雑用で大変だけど」
 シェリルは毎日のように、本や紙束などを抱えて、廊下を右往左往しているロデリックの姿を思い出した。確かにグレンがこまごまとした書き物などするところは想像できない。全てロデリックが引き受けていたのだろう。
「なんでグレン様があなたに目をつけたの? お金数えるのが早いとか、女装の腕とか買われて?」
「なんか……気のせいかな。微妙に質問に悪意を感じるんだけど……」
 彼は溜め息のような静かな苦笑いを漏らして続けた。
「なんでかは、正確なとこは本人に聞かなきゃ分かんないけどね。まあ、無視するわけにもいかないんだよ。――あれでも、血の繋がった兄貴だからね」
 明かりのない、闇にくるまれた森を見下ろしていたシェリルは、目を瞠って彼を振り向いた。同じように城壁の下に目を向けていたロデリックは、ゆったりとした動作で体を反転させ、背中を城壁に預ける。
「兄がいるって話はしたっけ? 僕が家を出た後、すぐ上の兄も、剣で身の証を立てるなんてアホみたいなこと言って、実家を出奔していたらしいんだ」
 彼はやや視線を落とし、冷えた石畳を見つめながら独白のように呟いた。
 合点がいった。何故ロデリックが、軍の中で親からつけられた名前を名乗っていたのか。実の兄の下で副官として働いていたからなのだ。
 それでも俄かには信じがたかった。あのグレンとロデリックが兄弟などと。全く似ていないので、考えもしなかった。シェリルはまだ唖然としたまま、何とか声を出した。
「司令官様があなたの本当のお兄さんなの?」
「そう」
「嘘……」
「嘘だよ、もちろん」

「もう、あなたとは話しない! どうせ嘘ばっかついてるんだもん」
 癇癪を起こして、城壁を何度も蹴っているシェリルを眺めながら、ロデリックは、足が痛くならないのだろうかなどと考えていた。もう二十歳をとうに越えた、妙齢の淑女のはずだが、気が短いところは昔から変わっていないようだ。
「あんまりあっさり信じられちゃうと、僕もショックだけど」
 ロデリックは悪びれもせず──どころか、確実に面白がっている──、薄笑いを浮かべている。それがシェリルには悔しかったが、同時に彼に掌の上で転がされているようで、何故か嬉しくもあった。
 確かにロデリックとグレンが兄弟などとは思えないが、そんな理由でもなければ、ロデリックが軍隊──しかも辺境の大公の軍などに入るはずがないように思える。
 しかし彼女がもう一度、彼が軍にいる理由を尋ねようとする前に、ロデリックの方から口を開いた。
「君は? なんでお城勤めなんかしてるの? あんまり似合わないと思うけど」
「うるさいな、お互い様だよ」
 ついさっきまで漂っていた、他人行儀な気まずさが徐々に溶けていく。
 彼と離れた時の記憶は、一生忘れられないだろう。魂の一部を持ちさられてしまったような、悲しく切ない出来事だった。それなのに、今こうして彼と話していると、まるでその出来事が抜け落ちたかのように、離れる前と同じくらいの親しみが沸いてくる。時間が戻ったようだ。
 恐らく、彼と離れた後の三年ほどの時間のうちに、シェリルが彼との別れをしっかりと受け止め、彼女の中の一部として自然に取り込んだからなのだろう。いざ対面してみると、自分で思っていたより、彼に対してわだかまりはなかった。
 しかし当時と全く同じではない。時間はふたりを侵食し、その間には小さなしこりが残っている。ただふたりとも、見ない振りをすることができるようになっただけだ。
「あたしの方も色々あったの」
「あの副伯夫人、綺麗な人なのに、昔は君と同業だったんだって? その繋がりで潜り込んだの?」
「そんなとこ」
 ゆうべロデリックと抱き合う前、彼と離れた後のことを語って聞かせたいと思った。
 辺境の厳しい土地、知り合いもいない土地で、何もできないちっぽけな彼女が、どんな風に過ごしてきたか。それはシェリルにとって苦痛の記憶であり、同時に諦めずに乗り越えてきた誇りでもあった。死にたくないという一心で、彼女は暴力や飢えが蔓延する荒んだ世界を、あらゆる手段で生き延びてきた。
 それを彼女の手を離した彼の前で語ってやりたかった。そして慰め、讃えて欲しかった気がした。
 ゆうべなら、それが容易にできただろう。
 しかし一夜明けて、体から熱が抜けると、それがひどく甘えた、子供っぽい欲求に思える。彼にとってシェリルはもう、いや、昔から他人なのだ。違う人間が、同じ出来事を聞いても、同じように捉えるとは限らない。シェリルにとっては激動の日々も、恐らく彼には馴染んだ日常かもしれない。

 自分のことを話すのはやめて、シェリルは再びロデリックに問いかけた。
「なんでずっと無視してたの?」
「え」
 率直に訊かれることを予想していなかったらしい。ロデリックは口を半開きにしたまま、言葉に詰まった。シェリルは気は短いが、相手の気持ちを捉えようとしすぎて、引っ込み思案になる傾向がある。彼女が感情や疑問を率直に相手にぶつけることは少なかった。
 だが彼に遠回しに質問を続けても、はぐらかされるだけだ。彼女はあえて真正面から尋ねてみた。
「いや……無視してたっていうか、そういうわけじゃないんだけど、僕も今では一応司令官付の副官って立場だし、お城の侍女と知り合いなんて分かったら、お互いに微妙でしょと思って……」
 固まった表情をほぐすように、ややぎこちなくロデリックが笑う。
「グレン様以外には、過去の経歴を詐称してるから?」
「詐称ってゆーか……。まあ、そうだね」
 ロデリックは城壁にもたれたまま、心もち背を反らし、両手を頭の後ろで組んだ。やや寛いだような姿勢になる。
「僕がどこの馬の骨だか分からない人間だなんて知られると、ちょっとまずいんだ。大公国はここみたいに、君主の下で綺麗にひとつにまとまってるわけじゃないからね。大公が目をかけている司令官にアラがあると、貴族たちに糾弾の口実を与えることになるんだよ。だから、僕の昔のことは黙っててくれると嬉しいけど」
「そりゃあ、喋るつもりはないけど。グレン様にも口止めされたし」
 大公国の貴族たちの争いなどに、シェリルはさほど詳しくなかったが、現在の大公は、まだグレンとそれほど変わらないほど若かったはずだ。先代の直系の息子ではなく、甥であるということで、一部の貴族たちの反発を招いているという。詳細は分からないが、先代の息子は精神に問題があり、幼い頃から表に出てくることがほとんどなかったらしい。娘たちもいたはずだが、どうなったかまでは分からない。恐らくほとんど他国に嫁いだのだろう。
「別人の振りをしてたから、ずっと無視してたの? だったらなんで、最初会った時に、いきなり赤くなったりするの。変だったよ」
 初めて広間で、グレンの背後にいる彼を見つけた時の、息も止まるような衝撃を思い出し、シェリルは憮然と言った。あの時からずっと、彼女の心はかき乱され続けている。今も。
「あれは、君が見すぎ。あんなにガン見されて、無表情だったら、その方がよっぽど変でしょ。赤くなるのが一番自然だろうと思ったんだよ」
 ロデリックは頭の後ろで手を組んだまま、呆れたようにシェリルを見下ろしている。
「顔色を調節なんかできるの?」
「赤くなるぐらいならできるよ」
「どうやって?」
「力いっぱいお尻の穴締めるの。顔は無表情を保つのがポイント」
 何がポイントだ。逆にシェリルが呆れ顔を返す番だった。あの時、彼女があれほど鼓動を弾ませていたというのに、ロデリックの方は尻の穴を窄めるように力んでいたなどと聞くと、当時の自分があまりにも情けなかった。
「君もやってみれば? 小尻の効果もあるらしいよ」
「うるさいな」
 へらへらと笑っているロデリックにむっつりと言い返す。
 侍女に召抱えられてから、他の侍女たちと共に、レジーナに鍛えられたのだ。これでも、昔よりは腰回りは引き締まったつもりだが、あまり変わっていないように見えるのだろうか。
 少々傷つきながら、彼女は質問を続けた。
「グレン様とは、どこで会ったの? あなたが昔何やってかも知ってるの?」
 後者の答えは聞かずとも分かる気がした。グレンはロデリックのかつての通り名を知っている。東の王都近辺で、名の知れた何でも屋だ。それも主に誘拐や盗み、そして暗殺を引き受けていた。レジーナやシェリルたち冒険者とは、似て非なる商売である。当然グレンは、その時代の彼を知っているのだろう。
「司令官は何て言ってた?」
 シェリルの質問に、ロデリックは質問で答えた。
「あなたが大公の貴族の息子で……王都に留学してた変わり者で、親に勘当された穀潰しだったけど、グレン様が抜擢したって」
「そう、彼の言う通りだよ。今の僕はそれ以上は語れない」
 穏やかな微笑みを見せる彼に、小さな失望を覚えた。彼には彼の、シェリルが知らない事情がある。だから何もかも打ち明けてくれるわけにいかない。そう言い聞かせ、大げさにがっかりした表情を作りながら彼女は続けた。 
「貧血気味で青白くて、寝込んでばかりいるとも言ってたけど……それでいいの?」
「そうだよ」
「あなたが童貞で、まだ剥けてなくて、幼女趣味で、女の人にお尻踏んづけられて喜んでるとも聞いたけど……それでいいんだよね?」
「…………」
 ロデリックは今度は頷かなかった。
(あのやろう……)
 彼は心中で小さく毒づいた。
 どうも、小さな娘を持つ士官や兵士から蛇でも見るような目で睨まれたり、『慌てなくていい。運命の女神が現れるまで大切にしておけ』『恥ずかしいことじゃないぞ』『人間失格ってわけじゃない。気楽に考えたまえ』などと、時折、士官たちに意味もなく励まされることが多かったわけだ。グレンが余計な噂を撒いていたのか。
 ロデリックがグレンへの仕返しを考えていると、隣でシェリルは何度か頷いた。
「分かった。そういうことにしておく」
「……いや、一部はそういうことにして欲しくないんだけど」
「でもそれなら、どうしてあたしの知ってるあなただなんて、ゆうべあたしに暴露したの?」
 彼の呟きを遮り、シェリルはもう一度率直に問いかけた。
 見上げる娘の黒い瞳を見つめながら、彼は星屑を閉じ込めたような綺麗な目だと思った。

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