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山間の城の物語」
第三章 紅蜘蛛の花

1.紅蜘蛛の花 (1)

2011.04.18  *Edit 

spiderlilly1.jpg

第三章

1.紅蜘蛛の花


 扉を叩いても返事は無い。取っ手を掴んで重い木戸をそっと引くと、小さく軋みながら入り口が開いた。鍵も閂もかかっていない。
「失礼します」
 不自然でないほどの小声で告げながら中に一歩踏み込んだ。心臓が弾む。
 しかし通路入り口の楢の椅子に座した男は、上半身を傍らの机の上に倒している。規則正しい鼾が聞こえていた。
「すみません」
 マイラが声を掛けても、男は肩を緩やかに上下させるほかは、全く動く気配もない。
 男が突っ伏している小机には、酒壷と空になった銅製の杯が置いてある。マイラがそっと酒壷を覗き込むと、半分近くまで飲み干されているのが見えた。大公軍の士官には教育が行き届いているようだが、牢番ともあろう任務の者が、随分と深酒をしたものだ。
 しかし今夜は致し方あるまい。一年に一度、最も昼が長い真夏の一日を祝う祭りなのだ。
 兵舎に寝泊まりしている兵士たちでさえ、今夜は食堂で深夜まで馳走を楽しんでいるというのに、運悪く牢番などに当たり、一人でこんな狭い小屋に座っているしかないとは、この士官には酷だろう。他の士官たちは、広間で副伯夫人が主催する宴を満喫しているのである。
 ふてくされているところに、侍女がこっそり酒を差し入れにくれば、疑いもせずに、それを慰めと思って飲み干すだろう。東の畑で取れる、重く深い味わいの上等の酒は、男性に特に好まれる。
 マイラに協力して葡萄酒を差し入れにきた侍女は、この場にはいない。万一、眠り薬を仕込んだことが露見しても、彼女に疑いがかからないように、酒を差し入れた後は一晩中広間にいて、多くの人目に触れるように振る舞っている。牢に用があるのはマイラだが、彼女は牢番の士官に姿を見られていない。二人が共犯だとさえ分からなければ、どちらにも疑いはかからないはずだ。
 無論マイラが、牢番が目覚める前にここを抜け出せばの話である。しかし、酒に仕込んだ薬は、相当強力であるらしい。滅多なことでは、夜明けまで牢番は目を覚まさないだろうと、彼女は言っていた。
(ありがとう、シェリル)
 ぐっすりと寝込んでいる士官を見下ろし、マイラはもう一度、彼女に心の中で礼を述べると、机の脇に無造作に掛けてある鍵束に手を伸ばした。
 音を立てないようにそれを取ろうとして、彼女はふと思い直した。マイラは牢内の人間に用があるが、鉄格子を開ける必要は無いはずだ。無論、格子を開けて中に入れば、罪人とより近くで話ができるだろうが、万が一、情に流されて彼を逃がすようなことにでもなれば、女主人に顔向けもできない。そしてマイラを信じて、頼みを聞いてくれたシェリルをも巻き込んでしまう。罪人は今、大公の軍の管理下にあるのだ。彼を逃がして、司令官の怒りを買えば、取り返しのつかないことになる。
 マイラは鍵束を取らず、持ってきた角灯を握り直すと、足音を立てないように、奥へと進んだ。鉄枠で補強された、分厚い扉がある。彼女は角灯を一度床に置き、頑丈そうな閂を両手で外した。
 体重をかけるようにして重い扉を押すと、蝶番が耳障りに軋む。華奢な彼女は何度か息をつき、苦心して自分が入れる隙間の分だけ、やっと扉を押し開けた。
 夜風をよけるために羽織ってきた肩掛けが、扉を開ける間に肩から滑り落ちてしまっていた。角灯と肩掛けを拾い上げ、マイラは扉をくぐって廊下の奥へと進んだ。
 牢のあるこの小屋は、城館の裏手、敷地の隅にある。小さいながら石造りの頑丈な建物だ。廊下に窓は無く、日の当たらない内部は、ややかび臭い。
 マイラは足音をひそめて進んだ。心は逸るのに、体が重い。一歩ごとに心臓の鼓動が高鳴り、僅かに呼吸すら乱れる。
 どんな顔で会えばいいのか。何を話せばいいのか。分からない。
 そして彼がどんな風に彼女を見るのだろうか。様々な想像だけが駆け巡る。自分が何に苛まれているのかも、よく分からなかった。
 牢の手前で、ついにマイラは足を止めた。心臓が弾んで息苦しい。これ以上進めない。
 軽く掲げた角灯は、廊下の突き当たりの黒ずんだ石壁を照らしている。その横手に鉄格子があるはずだ。ここからは見えないが、その奥に罪人が捕らわれているはずだ。しかし物音も声も息遣いも聞こえなかった。静寂が耳を覆う。
 引き返そうか。
 暗闇が重圧となってのしかかってくるようだ。角灯の光は弱々しかった。
 逡巡している時間は無い。訪ねるか、引き返すか。早く動かなければ。一年で最も昼が長い日の夜は最も短い。すぐに夜空は白み始める。
 だが角灯が照らす壁を見つめるマイラの思考は、追憶にけぶった。


**


 空は茜色に染まり、ところどころに漂う雲が、残照を照り返して輝いていた。夕映えは目が痛くなるほど眩しく、マイラは何故か恐ろしくなった。
 屋敷の裏手にある小高い丘は、背の高い樹木がほとんど生えていない。土が痩せていると言われるこの一帯は、古戦場であった。
 昔々、とても大きな戦があり、お屋敷は砦となった。敵の数は圧倒的で、高貴な方を守ろうとした地元の勇敢な人々は、ここで亡くなった。
 幼いマイラが耳にして理解していたのは、その程度だ。当時の彼女くらいの年齢の、十歳に満たないような女児さえ武器を手にして戦い、幼い命を散らしたという。その話を聞いて以来、この丘に来る度に、マイラは悲しくなって涙ぐんだ。夜になると、亡き人たちの魂が、ある時は生前の姿で、ある時は小さな光の塊となって、丘を漂うと言い伝えられていた。古の古戦場はある種の聖地とされながらも、すすんで近づく者は少なかった。
 しかし彼女の主人は、ひと気の少ないその小さな丘がお気に入りだった。樹木や潅木も生えない痩せた土には、当時のマイラの膝丈くらいの下草が生い茂っているばかりであったが、短い山地の夏が終わり、秋に変わる頃、あたり一面は、咲き乱れた紅い花に覆われた。
 まるで燃え盛る炎に包まれた戦場そのものだ。大地も空も、赤々と燃えて美しく輝いていた。
 腰まで覆うような高さの群生した花をかきわけ、マイラは彼女の主人を探した。花はできるだけ踏みたくないが、進むうち、いくつかを折って踏みつけてしまった。
 夕陽や血潮のように鮮やかに紅く染まった花には、毒があると聞かされていた。年老いた乳母は、この花は古戦場で散った死者たちの養分を吸って、毎年狂ったように咲くと、マイラや彼女の主人に語った。死者の無念を吸い上げているから、生きている人間には毒になるという。
 マイラはその話を聞いて、なおのことこの丘を恐れたが、彼女の主人は却って花の咲いている時期に丘に出かけたがった。

 風が吹いて、三つ編みにしたマイラの長い髪が揺れる。秋分はまだだが、この時期も夕暮れともなると、風は吹き降ろすように激しく、冷たい。早く主人を見つけなければ、風邪を引いてしまう。
 焦り始めたマイラは、主人の名を呼びながら、背伸びをして辺りを見回した。落日の光が眩しくて、長く目を開けていられないが、見た限りでは、彼女の主の姿は無かった。
(ここにはいないのかしら)
 しかし屋敷の中は、乳母たちが探している。マイラはもう少し外を探してみようと思い、肩掛けをしっかりと首に巻きつけて結ぶと、また花をかき分けて歩き出した。
 彼女の耳が低いすすり泣きを捉える。
 声のする方に目を向けると、赤い花々の隙間に、夕陽を照り返すような淡い色の髪が見えた。
 見つけた。
 マイラが足を速めると、花をよける音が聞こえたのか、すすり泣きは突然止んだ。マイラは丸まった背中に急ぎ足で近づく。小さなマイラの小さな主人は癇が強く、よく泣く幼子だったが、最近では泣いているところを他人に見られることをひどく嫌うようになった。
「こちらにいらっしゃったのですね」
 色合いは濃いが、匂いは淡い花をどけるようにして、彼のすぐ後ろに跪く。しかしマイラの柔らかな声を聞いても、彼女の主人は振り返ろうとしなかった。
「もう日も暮れます。早くお屋敷に戻らないと、お夕食に間に合いません」
「いやだ」
 十にも達していないマイラより、さらに三歳年下の少年は、振り返りもせずに、鼻にかかった湿った声だけを返してきた。
 彼は怒ったり悲しくなったりすると、蔵に閉じこもったり、この丘にやってきては一人でいつまでも座り込んでいた。マイラと同じ年頃の、侍従や侍女の見習いたちは、彼らの主人を大層扱いにくいと思っているようだった。一度おかんむりになると、話もしなくなってしまうからだ。
 しかしマイラは、彼が無言のまま全身で訴えていることが、いつもうっすらと分かるような気がして、小さな主人の気分が少しずつほどけるまで、辛抱強く傍についていることが度々あった。そのせいか、少年は側仕えの子供たちの誰よりも、時には乳母や実母よりも、マイラに心を許しているように見えた。
「どうか、そんなことをおっしゃらないでくださいませ。皆様、ご心配されています」
 少年の背後からもう一度穏やかに声をかけたが、答えは無かった。冷たさを増してきた涼風のせいか、嗚咽をこらえているのか、彼女の主人は時折小さく肩を震わせる。
 その小さく丸まった背中を幾度見てきただろうと、マイラは思った。夕暮れの丘や蔵の中で、いじけて背を向けてしまう少年が心を開くのを、マイラは後ろで待ち続けた。しかし、もう主人の背中を見守ることもない。
「さ、お風邪を引かないうちに、お屋敷に戻りましょう」声を詰まらせそうになりながら、彼女は再び口を開いた。「マイラのお願いも最後です」
「いやだ……」
 彼女の主人は激しく首を振った。答える声は静かな嗚咽に歪み、鼻をすする音が続いた。
 マイラは彼にいざり寄り、前から顔を覗き込んだ。少年はそうされることをひどく嫌うが、放ってはおけなかったのだ。
 案の定、彼の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。大きな灰青色の瞳からは、雫となった涙が絶え間なく溢れている。
 屋敷の人々だけでなく彼の肉親たちまで、少年は癇が強いと思っているようだが、彼は喜怒哀楽が激しくて、繊細なだけなのだ。自分だけが誰も知らない主人の一部を理解している気がして、マイラは彼が愛しくて仕方がなかった。できることならこのまま側に仕えて、彼が成人し、美しい花嫁をもらうまで大切に見守りたかった。いずれは彼の子供を乳母として面倒を見られる日がくればいいと、九歳のマイラは自分の幸せは二の次に、早くもそんなことを考えていた。彼の子供も、きっと彼に似て扱いづらいに違いない。だからマイラが世話をしてあげるのだ。
 しかし、それは叶わないこととなった。明日、マイラは屋敷を出る。山の上の、いつも見上げている本家の立派な城に仕えることになったのだ。マイラの母が、長年主人に嘆願し続けて、やっと叶ったことであったらしい。
 本家に住むのはこの地方の領主である。そこに仕えれば、今より着る物や食べ物も良くなるはずだ。母はそう考えていたのだろう。
 マイラは現在の生活に満足していた。周囲の人は短気だったり、陰湿だったり、意地悪だったり、人間らしい欠点もあったが、それはマイラも同じである。彼らは概ね親切で善良だった。何より、彼女の気難しい主人が、マイラがいなくなってしまった後、誰に懐けるのか。すぐに癇癪を起こす彼に、辛抱強いマイラ以外の遊び相手はいるのか。心配でたまらなかった。
 マイラは母に、この屋敷に自分だけでも残りたいと告げたが、頑として受け入れられなかった。
『本家にお仕えするなんて大変名誉なことなのよ。私が何度も旦那様にお願いして、やっと本家への紹介状を書いていただけたの』
 恩着せがましく聞こえる母の言に、マイラが俯いて不満を示すと、母は床に膝をついてマイラの顔を覗き込んだ。
『あなた一人を置いていけるわけないでしょう。本家に行けば、使用人たちも多いから、もう少しゆとりをもってお仕事ができるし、素敵な殿方の目に留まる機会も出てくるわ。あなたももうじき年頃ですもの』
 母は一見穏やかに見えるが、野心と情熱を心に隠し持っている女性であった。
 マイラに父はいない。彼女が物心つく前に亡くなった、屋敷の以前の執事が父親であったという。執事と侍女の一人が関係を持って子を為すなど、通常は許されることではないが、寛大な屋敷の主はマイラの母の過ちを許し、母娘を引き続き侍女として置いていた。
 私生児として、マイラも見習いの子供たちにからかわれることが少なくなかったが、母はもっと肩身が狭かっただろう。本家へ移る機会があるのなら、とびつくのも当然だと思えた。
 あなたは幸せな結婚をしてちょうだい。
 マイラがまだ愛も恋も知らない幼少の頃から、母は繰り返し囁いてきた。
 しかし九歳のマイラには、男性と寄り添うことも、愛し愛されることも、まだ現実的ではない。生真面目な彼女は、同じ年頃のませた少女たちが、少年たちについて噂話に花を咲かせるのを横目に、いつも翌日の仕事のことや、彼女の小さな主人に対して思いを巡らせていることが多かった。

「あなた様がお屋敷に戻らないと、マイラも戻れません」
 膝を抱えている少年の手を取り、マイラは嘆願するように呟いた。小さな丸い手はとても温かい。それは何度も涙を拭ったためにほんのりと湿っていた。
「じゃあ、僕はずっと戻らない。マイラとここにいる」
 おとなしくマイラに手を握られたまま、彼女の主人は両膝の間に顔を埋めて、くぐもった声を上げた。
 彼女は痛々しく少年を見遣り、ふと周りを見回した。屋敷の裏手の丘は、やや突き出した崖のようになっており、木々が無いせいで見晴らしが良い。赤々と染まった空がとても広く見えた。そこから下に繋がる大地は、同じ色の花で埋め尽くされている。花咲く初秋の時期だけでなく、緑匂う春や夏、枯れた茶色の地面を雪が覆い隠す冬。年中、マイラと少年は、この丘で遊んだ。乳母は他の侍従見習いなども同行させたがったが、少年はそれを嫌がり、無理につかせた子供たちに毛虫をけしかけたり、木の枝で叩いたりして、泣かせて追い払ってしまった。
 マイラはこの丘がそれほど好きではなかったが、小さな少年と過ごしてきた時間の長さに思いを馳せ、まるで火を放たれたように、赤い花が一面に咲く野原を見つめた。
「僕ずっとここにいる」
 少年はゆがんだ声で、再び弱々しく言った。
「僕が戻らなかったら、マイラも戻れないっていうなら、僕ずっとここにいる」
 またわがままを。
 頑なに動こうとせず、涙が止まっても、まだ顔を伏せたままでいる主人に、こっそり溜め息をつきながら、マイラもまた涙が出そうになった。彼女をはじめ、屋敷の使用人たちの手を焼かせる小さな暴君。しかし彼女は、やっと自分にだけ懐いてくれた少年に、もう少しだけ、いや、できるならもっと長くついていてあげたかった。
 燃え上がる太陽は山々の彼方に沈み、残る光も宵闇に侵食されていく。夜が来る。
 このままでは夜風に冷やされて、少年は本当に風邪を引いてしまう。
「お願いです。どうか、マイラと一緒に、お屋敷にお戻りください」
「いやだ。マイラが行かないって約束するまで、ここにいる」
 少年は頑固だった。明るい色の髪を照らすのは、いつの間にか空高くに上っており、日没と共に輝きを増した上弦の月だ。紅い花は闇色が混ざって、細長い花びらが蜘蛛の脚のように見える。

「申し訳ございません」
 長いこと主人の前で跪いていたマイラは、ゆっくりと腰を上げた。膝から下に強烈な痺れが下りていく。
「私もできることなら、ずっとお側にいたいのですが……」
 少年は顔も上げずに沈黙していた。小さな形の良い頭を見下ろし、マイラはどもりながら呟いた。
「あの、お風邪を引きます。すぐに人を呼んできますから、ここから動かないで下さいませ」
 少年がマイラを振り仰ぐ。宵闇と同じ色の瞳が、溜まった涙できらきらと光っていた。あどけなく、無防備な視線に貫かれ、マイラは動けなくなった。呼吸も忘れた。
 一瞬あと、少年は癇癪を爆発させた。
「なんだよ。お前は僕がいるから、この家でうまくやっていけるんだ! 他の家に行ったって、のろまのお前なんか役立たずだ」
 激高したマイラの主人の瞳からは、感情の高ぶりに合わせて、再び涙が流れ出していた。
「お前は僕の世話しかできないんだ。それだけやっていればいいんだ!」
 少年が手の甲で乱暴に目元を拭うと、彼の声は急激にしぼんだ。嗚咽を上げ、鼻をすする少年を前にして、まばたきした拍子にマイラの目からも涙が溢れた。それにに気づいたのか、そうでないのか、彼女の小さな暴君は弱々しい声で続けた。
「マイラ……。勤めが厳しいなら、僕がばあやに言ってあげる。他の仕事しなくていいように、父上にも言ってあげるから。もっときれいな服を出して、僕と同じ物食べられるようにするから」
 だから行かないで。
 食いしばった歯の間から漏れたのは、鳥の鳴き声のような細い嗚咽だけだったが、声にならないその言葉をマイラは確かに聞いた気がした。
「申し訳ございません。私もずっとお側にいたいのですが……」
 少年と向かい合い、はらはらと涙を零しながらマイラも呟いた。この繊細で賢い少年が、どんな青年に成長するか、この目で見守って支えてあげたかった。
「でも、母とご主人様が決めてしまったことなのです。私はまだ子供ですし、一人でこちらに残るのこともできないので……」
「いやだ、いやだ! 僕、絶対動かない。マイラがお城に行くなら、僕ずっとここにいる。死んだってかまうもんか」
 少年はいくつもの花を下敷きにして地面に座ったまま、体を揺すって喚いた。いよいよ手がつけられなくなってきてしまった。
 灰色の雲がたなびき、月を半分覆う。既に夜だ。湿気を含んだ風が吹き、マイラの長い髪をなぶった。雨が降ってくるかもしれない。
「お願いです」涙声でマイラはもう一度、小さな主人に懇願した。「どうか、私と一緒にお家へお帰りください」
「いやだー!」
 少年を立たせようと、マイラはそっと彼の腕に手をかけたが、激しく振り払われ、ついでに手の甲をぴしゃりとはたかれた。
 どうして最後の最後くらい、言うことを聞いてくれないのだろう。
 マイラは悲しい気持ちで、もはや感情を抑えることもせずに号泣する小さな主人を見下ろしていた。しかし泣いている彼は、マイラよりもずっと悲しいに違いない。
「すぐに戻ってまいります。どうか、こちらで動かずにお待ちくださいね」
 彼女の声を聞くまいとするように、少年はますます泣き声を張り上げたが、マイラは素早く身を翻すと、服の裾を持ち上げて屋敷へと駆け戻った。月が出ているうちに、屋敷から大人を連れてきて、力ずくで少年を連れ戻さないと、依怙地になった彼は、本当に一晩中でもあの丘にい続けるだろう。初秋とはいえ夜は冷える。雨でも降ろうものなら、肺炎を起こしてしまいかねない。
 行かないでという、とうとう聞くことはなかった少年の声が、赤い花を蹴散らして走るマイラを追ってくる気がした。彼女も涙が溢れて止まらなかった。

 その後、マイラは乳母に事情を知らせて、乳母と下男、少年の兄を伴って丘へと戻った。
 同じ場所で泣いていた少年は、マイラ以外の人間の姿を認めると、唇を噛みしめて泣き声を抑えようとした。
 必死に抵抗する彼を兄が叱りつけ、乳母が宥め、下男が少年を無理矢理抱えて、彼らは屋敷へと戻った。帰り道の途中、流れてきた雲に月はすっかり覆われ、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

 翌日の早くに、マイラは母と共に荷物をまとめて、山の上の城へと出発した。
 彼女を可愛がっていた乳母が、少年の手を引いて見送りにきてくれた。彼の真っ赤に泣きはらした目は、しかしもう涙を浮かべることはなかった。彼女の主人だった少年は、憎悪に燃える瞳でマイラを睨み上げて言った。
「お前なんか、どこへでも行っちゃえばいいんだ! もう二度と戻ってくるな」
「まあまあ、坊ちゃま……」
 乳母が慌てて宥めたが、少年はその手を振り払って、屋敷へと走り去っていった。
 彼女が子供時代の彼を見たのは、その姿が最後であった。

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