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魔女とコヨーテ」
第五話 山の端に陽が沈むまでに

第五話: 山の端に陽が沈むまでに 26

2009.09.16  *Edit 

 どうすることもできず、ただ時が流れていく。
 水をくれた司祭が去ってからも、シェリルたちが牢から出される気配は無かった。護衛の兵士が残っているところを見ると、あのフレデリック司祭もまだここに滞在しているのだろう。今日は出発せず、もう一日この町で休むことにしたのかもしれない。
 だとしたら、彼女たちが牢から出されるのは、明日の朝──九日目の朝以降だ。どんなに馬を飛ばしても、一日半では絶対にあの廃屋には着けないだろう。
 一度跳ね除けた絶望が、再び黒い霧のようにシェリルの胸に満ちようとしていた。

 やがて、もう一度見張りが交替した。
 あれから司祭も訪れず、もう時間の感覚が分からない。
「頼む。用を足したいんだ。厠に連れて行って欲しい」
 三人目の見張りに、コヨーテは疲れた声でまた頼んでいる。またもや尿意が襲ってきたのだろうか。
「お前か? 女か?」
 返事が返ってきた。これまでの兵士二人は、どんなに話しかけようとも無視されていて、取り付く島もなかった。 
「妹の方だ」コヨーテも希望を見出したように、上擦った声で続けた。「頼む。恥をかかせるような真似をしないで欲しい。神の慈悲と君の名誉にかけて」
 兵士は腰掛けていた椅子から、鍵を手に無言で立ち上がった。格子の側まで歩み寄ってくる。
 期待や闘争心を見抜かれてはならない。シェリルはできる限り無表情を装った。
「貴様は奥にいろ。ご婦人だけ、こちらに寄れ」
「ありがとうございます」
 丁寧に礼を述べ、コヨーテと一瞬だけ視線を交わす。兵士を警戒させてはならないので、それ以上見つめ合うことはできなかった。
 格子に近寄ると、兵士の値踏みするような視線が彼女を眺め回した。彼が親切心で彼女を出してくれるのか、あるいは厠へ連れて行く振りを装いながら、何か下心を持っているのかは分からなかった。
 最後の好機だ。これを逃せばもう確実に手遅れだ。
 兵士が格子を開けた瞬間、コヨーテは動くだろう。その時、兵士の目の前にいるシェリルが足手まといになってはならない。全身に緊張を張り巡らせる。

 兵士が格子を開ける。シェリルがそこをくぐる際、兵士が押えていた、内開きの格子を思い切り蹴り飛ばした。不意を突かれた兵士の手から格子戸が離れて、勢いよく開く。
 シェリルは兵士の体を肩で押し退けて外へ飛び出そうとしたが、鎧を着込んだ頑丈な男の体は動かなかった。すぐに太い腕が伸びて、彼女の小柄な体を捕まえる。男の意識はその瞬間、シェリルだけに向けられていた。
 彼はそれを逃さなかった。
 一瞬で数歩の距離を詰め、隠し持った長針を投擲する。首元を鎧で覆われた男の顎に針が突き刺さった。
 顔を上げ、コヨーテに注意を向けた男の腕が緩む。シェリルは素早くその腕を振り払い、縛られたまま距離を取る。彼に掴みかかろうとした兵士は、そのまま前のめりに膝をつき、上体を倒した。金属の鎧が石の床に触れる音がやかましく響く。
 コヨーテはすぐに屈んで、男の体から短剣と長剣を抜き取ると、身振りでシェリルを呼び寄せ、彼女の縛めを短剣で断ち切った。
 彼は短剣を彼女に手渡し、すぐに上階へ続く階段を駆け上る。シェリルも慌てて続いた。幸いなことに、下りてくる人間はいない。
 地下牢の出口は中庭に面している。コヨーテに続いて落とし戸を開けて外に出た。
 そこは闇に包まれ、天空に月が輝いていた。既に夜だったのだ。
 間に合わない。
「早く」
 呆然とする彼女を、コヨーテが促す。彼は小走りに司祭たちの宿舎に向かった。大股で歩くと、丸一日何も食べておらず、僅かな水しか与えられてない体がふらつく。
 建物と中庭を繋ぐ扉には鍵がかかっていた。シェリルは再び術を使い、念力で鍵を開ける。
 廊下に一歩飛び込んだ。昨日の夕方にここを歩き回った時には、厨房から物音が聞こえたが、内部は明かりも無く、夜の静寂に包まれていた。
 宿泊者も教会関係者も寝静まっているのだろうか。つまり宵の口などではなく夜中だということだ。思ったより時間が経過している。
 明かりが無くては何も見えない。シェリルは手探りで袋から蝋を取り出すと、呪文を唱えて、指先に小さな光を生み出した。
 コヨーテが先に立ち、二階へ続く狭い階段を上る。二階の廊下を覗き込んだ彼は、階段下で待つ彼女に首を振ってみせると、足音を忍ばせて降りてきた。
「ダメだ。二階の廊下に兵士が二人、見張りに立っている。一人ならどうにかできるけど……」
「外から入ろう」
 シェリルは彼の手を引いて、建物の外へ出た。フレデリック司祭の滞在しているはずの部屋の真下で、再び鳥の羽を取り出して、呪文を唱え、集中する。
 音も無く渡っていた淡い風が小さな渦を巻いて、シェリルに纏わりついた。風の精霊と同調することにより、彼女は自分の体を浮かばせることができる。
「つかまって」
 集中を続けながら呟くと、魔術の知識のあるコヨーテは雰囲気で状況を察したらしく、シェリルの胴にしがみついた。
 足の裏から地面が離れる。腹に回ったコヨーテの腕にぐっと力が込められ、彼の重さが食い込んだ。
 コヨーテがつかまっているので、普段より術の制御に集中が必要だ。彼女は慎重に自分と彼の体を持ち上げた。
 目の前に司祭の部屋の鎧戸が見える。後ろからコヨーテが片手を伸ばしてそれを引く。幸い鍵はかかっていなかったらしく、簡単に鎧戸が開いた。コヨーテが要領よく窓から体を中に滑らせる。それを見届けて、彼女も窓の縁に掴まり、鎧戸をくぐった。
 部屋に下り立つと同時に術を解く。軽く視界がぐらついた。衰弱気味のところに、術を連発して、体が弱ってきているのだ。だが倒れている暇はない。
 居室ではなく、読み通り寝室の方に入り込めたようだ。シェリルの指先に灯したままの淡い光は、素朴ながら大きな寝台と、そこに横たわっている男の顔を照らし出した。部屋の中に護衛は見当たらない。
 しかし鎧戸から吹き込む風とシェリルの持つ明かりを感じ取ったのか、寝台で眠っていたフレデリック司祭は、跳ねるように飛び起きた。
 剣を手にしたコヨーテが素早く近づく。しかし司祭は枕元に置いてあった短剣をいきなり彼に投げつけた。咄嗟にコヨーテは身をかわすが、後ろにいたシェリルの肘を短剣が掠めた。
「うっ」
 彼女のあげた小さな悲鳴を聞き、コヨーテが振り返る。
 その間に司祭は寝台から飛び降り、部屋の奥へと走ると、壁にあった小さな扉を開けて、中に入り込んだ。居室への扉はシェリルたちが塞いでいるが、反対側にもうひとつ扉があったのだ。
 一瞬、シェリルの様子を伺ったコヨーテは、すぐに足音も立てずに司祭の後を追う。シェリルも止血もせずに、その後から続いた。
 フレデリック司祭が飛び込んだ扉の向こうは、細く狭い通路だった。司祭用の脱出路なのだろうか。まっすぐに続いている。
 速い。
 シェリルも足はそう遅い方ではないが、コヨーテの背中は、この狭い通廊で見る間に遠ざかっていく。剣を握っているというのに、驚異的な速さで彼は司祭を追った。本当に狼かコヨーテのようだ。シェリルの指先の淡い光はやがて彼の姿を照らせなくなった。

 やっとコヨーテの背中が見えてきた。
 争いの物音は聞こえなかったが、狭い通路の途中で彼が倒れ伏す司祭の元で屈んでいるのが見える。
 息を弾ませながら追いつくと、彼は彼女を振り返った。
 司祭の姿が目に入る。うつ伏せに倒れたところを、無理矢理仰向けにさせられたのだろう。体をねじるようにして横たわるフレデリック司祭の喉からは鮮血が溢れ出している。驚きに見開かれた瞳は、もうどこにも焦点が無かった。
 殺したのか。
 長針で仕留めたなら、指輪を奪い返すだけだ。殺す必要は無いだろうに。
 シェリルは足を止めた。   
「指輪は?」
「あったよ」
 抑えた声で問いかけると、たった今人間を殺したばかりの男は、僅かに笑みを浮かべた。
「……じゃあ、渡して」
 震えないように力を込めた掌を差し出す。彼は答えなかった。

 しばらく強張った顔のシェリルを見据えた後、彼もまた表情を引き締めて口を開いた。
「シェリル、外の空を見た? もう八日目の真夜中だ。ここからあの王都の郊外まで、僕一人で馬を飛ばしたとしても、三日はかかる。君と一緒ならもっとだ」
 シェリルは突き出していた腕を引いた。その様子に一瞬目をすがめ、彼は続ける。
「多分……いや、絶対に間に合わない」
「だから何?」
 叩きつけるように返事を返すと、コヨーテは彼女の目をじっと見据えた。
「今からあの廃屋に戻っても無駄だよ。連中は姿を消しているか、いたとしても僕も君も殺されにいくようなもんだ」
「でも、指輪は取り返してきたんだよ。褒められてもいいんじゃない? たとえ約束の日にちが過ぎてたって……」
「教皇庁から『皇帝の指輪』を辺境伯が盗み出し、それが彼の手元にある。そこまで知っている人間を、奴らはできれば生かしておきたくないはずだ。指輪だけありがたく奴らが貰って、期限切れを口実に、僕らの口を封じる。奴らに取って一番安全な方法だよ」
 出発する前に、マライアが似たようなことを言っていたことを思い出した。指輪や男爵が見つかっても、事情を知りすぎたシェリルもマライアたちも殺される。だから戻ってくるなと彼女は語った。
「もしかして、暗殺者ギルドに忠誠を誓うなら勘弁してもらえるかもしれないけどね。薬漬けになって、魂まで奴らに捧げて、一生人間を殺し続けながら生きていくんだ」
「やだよ、そんなの」コヨーテの冷たい声に、彼女はかぶりを振った。「でも、じゃあここまでやって、指輪を取り返して、後はどうするの? 逃げる? でも逃げてもあいつら、必ず探し出して、地獄に送ってやるって言ってたよ」
「指輪があれば、逆に僕らを保護してくれる人間もいるよ」
 彼の言葉は澱みがない。この場の思いつきで喋っているのではなさそうだ。それは彼が出まかせを言っているのではないことを意味すると同時に、既にその事実を彼がずっと前から考えていたことも意味した。
「誰? 魔術師ギルド? 西の辺境の大公? 教皇庁?」
「誰でも。でも暗殺者ギルドにも影響力がある人間がいて……」
「辺境伯の次男?」
 コヨーテの言葉を遮って、叫ぶような声を叩きつけると、彼の表情がさっと変わった。らしくもなく動揺を表に表した彼を見て、シェリルは推測が当たっていたことを悟った。彼女はさらに続けた。
「指輪を持って、辺境伯の次男に保護を願い出れば、あたしたちの身は保証してくれるの? だから、間に合わないの分かってて、こんなに懸命に指輪を取り返そうとしたの? 『最後まで諦めるな』ってあたしを励ましてくれたのも、あたしの魔術を利用して指輪を取り返したいから?」
 矢継ぎ早に問い詰める内、表情を失っていたコヨーテの顔が、ゆっくりと動いた。僅かに薄い唇が吊り上がり、目元が穏やかに緩んだ。
「勘がいいね。全部分かってるんじゃない」

 裏切られたとは思っていない。彼がシェリルの利益や気持ちを最優先に考えていないことなど、とうに分かっていた。利害が一致していたから、お互いに協力して一緒に行動していたに過ぎない。ここに来て、その目的がぶれて分かれた。それだけの話だ。
 動揺するな。命取りになる。
 シェリルは懸命に自身に言い聞かせた。長針をいきなり投げつけられてはたまらない。僅かに後ずさる。    
 コヨーテは彼女を追おうとせずに、微笑を浮かべたまま再び口を開いた。
「もっと言えばね、あの指輪は、僕としては、もともと辺境伯の次男に届けなければいけないはずの物なんだ。中継ぎの男が裏切って、まさか国王の文官に横流ししてるなんて思わなかったよ。おかげで僕も疑われて、暗殺者ギルドに捕まる羽目になったし、とんだ迷惑だ」
 信じられない。開き直った彼の台詞に、頭がくらくらした。
 辺境伯が暗殺者ギルドを利用して、指輪の略奪を計画していたのを、辺境伯の次男は知っていたのだ。そして計画の中枢を担う、指輪を盗み出す本人であるコヨーテに、略奪した指輪を父である辺境伯でなく、次男の彼に届けろと誘いをかけた。何度か辺境伯から仕事を引き受けているコヨーテと、辺境伯の次男は面識があったのかもしれない。
 彼は莫大な報酬と、コヨーテが暗殺者ギルドを裏切ることによって生じる、報復の危機からの保護を約束したことだろう。暗殺者ギルドは現在は辺境伯の指揮下にあるようだが、次男である彼もある程度影響力を持つのかもしれない。
 彼が盗んだ直後に指輪を手渡した中継ぎの男も、予め抱きこんであったに違いない。指輪はそこから辺境伯の次男の元に流れるはずだった。それなら暗殺者ギルドに、指輪を横流しした犯人として疑われるのは、中継ぎの男だ。コヨーテに疑いが及ぶことはないはずだった。
 だが利益を取ったのか、あるいは辺境伯とその次男、両方と手を切りたかったのか、中継ぎの男は指輪を国王に通じる人間に流した。計算違いで、コヨーテは暗殺者ギルドに疑われることになってしまったのだ。
 しかし暗殺者ギルドも愚かなものだ。あの隙の無い赤毛の男を心の中で嘲笑した。『今までの実績があるから、疑われたものの、拷問にはかけられなかった』と、コヨーテは言っていた。暗殺者ギルドも、この有能なコヨーテを結局は信用してしまったのだ。事実、彼は国王側の人間とは通じてなかったのだが、その男が辺境伯の次男と通じていたとは、思いもよらなかったに違いない。
 あの赤毛の男が気づかなかったのだ。シェリルが気づけるはずがない。
「最初から、指輪を取り返したら、辺境伯の次男に渡すつもりだったの? あたしと、あたしの仲間を見捨てて……」
 シェリルは口を噤んだ。見捨てるなどと、まるで彼女と彼女の仲間が、彼に頼りきっているような響きだったからだ。
「いや」彼女の問いに、コヨーテは首を振った。「もし期限内に間に合うなら、暗殺者ギルドの方に指輪を渡してやってもいいと思ってた。確かにあの男は油断ならないけど、約束は守るほうだ。十日と期限を切ったなら、その間は君の仲間を生かしておいてくれるはずだし、期限に間に合うなら、僕らをいきなり殺したりはしないはずだ。
 だから言ったよね? 男爵が見つかった時、指輪のことは放っておいて、とりあえず男爵を連れて行けって。それから指輪が見つかった時にも、男爵の家族のことは置いておいて、すぐに指輪を奪って戻ろうって。でも君は拒否した。僕の提案を蹴ったのは君だよ」
 痛いところを突かれた。確かにそうだ。
 内心、情に流された己を激しく責めながら、苦々しくシェリルは言った。
「でも、もう間に合わないなら、辺境伯の次男の方に指輪を渡す方がいいって思ったわけ?」
「だって、そうでしょ。今言ったように、あいつは約束は守る。期限が切れたら、容赦なく君の友達を殺すよ。その後で僕らがのこのこ現れても、指輪を取り上げて同じように始末するだけだ。僕らが戻らないなら、事情を知る僕らに刺客を放つだろうね」
 狭苦しい通廊に、彼の声はよく響いた。澄んだ声は酷薄な響きを持っている。人間味が感じられない。まるで楽器の音色と会話しているようだった。
「辺境伯の次男なら、助けてくれるの?」
「彼の保護下に入ればね。君にとっても、伯爵みたいな落ちぶれかけた貴族に、都合のいい時だけ臨時に雇われているより、いい話だと思うけど。伯爵じゃ、君を暗殺者ギルドの追っ手からは助けられないよ」
「ふうん。辺境伯の次男に、大金と地位を約束されて、暗殺者ギルドを裏切ったんだ。辺境伯の次男の犬になるのが、そんなに魅力的だった?」
 軽蔑を込めて男を睨むが、彼は気に留めた風も無い。相変わらず薄笑いすら浮かべている。
「一人でブラブラしてるのにも、そろそろ飽きてきちゃったんだよね。ここらで誰かに使われるのも悪くないと思ったんだ。辺境伯もそろそろご老体だし、甘やかされた長男は間抜けだ。取り入るなら、若いけど頭のいい次男が一番有望に思える」 
「そうやって、自分の都合のいいように、あちこちふらふら渡り歩いてきたんだ。たくさんの人を裏切って。だから、お金しか興味が無くて、友達もいないの?」
「君に僕の生き方について説教されるいわれはないよ」
 ぴしゃりと言い返され、シェリルは黙り込んだ。コヨーテの褐色の瞳に微かに怒気が見える。
「君だって、人の為に何かしているような自己満足の為に、暴力沙汰に首つっこんで、魔術を私的に利用して、金持ちから金をもらって生活してるだろ。恵まれない人々の為に、日々無償で奉仕をしている坊さんたちから見れば、僕も君も変わりはしない」
 彼の言うことは正論だ。反論できない。しかし彼の行動に彼女は納得できず、彼女の言葉もまた彼には受け入れてもらえない。
 分かり合えない。これ以上近づけない。交わした言葉も触れ合う肌も、ただ無力だったと思い知った。
 虫唾が走るほどの軽蔑と怒りがこみ上げる。それでもこんな男と、毎晩のように肌を重ねたことを悔いる気持ちは湧いてこなかった。

 こうして問答している間にも、時は流れる。仲間の命が流れ出していく。
「お願い。指輪を渡して」
 議論や説得を諦め、シェリルは懇願した。
「あなた、落ちぶれた貴族なんて言ってたけど、伯爵だって王家の血を引く名門だよ。国王からの信頼も、辺境伯よりずっと厚い。国王に交渉だってしてもらえる。暗殺者ギルドからの保護は、伯爵に頼むこともできる」
 コヨーテの表情は動かなかった。硬い声で彼女は続ける。
「指輪を奴らに渡した後のことは、心配しないで。地位が欲しいなら、あたしたちの伝手を使って、どこかの貴族にあなたを売り込んでみる。お金も何とかする」
「話になんないね。……君、肝心のとこで嘘が下手だね。『何とかする』なんてあやふやな言い方じゃ、信じる人間はいないよ」
 シェリルの最後の提案を彼は鼻で笑い飛ばした。
 気に入っている人間に嘘をつくのは、心苦しいのだ。そう言い返そうとしてやめた。意味が無い。
 表情や声には表れていなかったが、彼女は激しく動揺していた。心が千々に乱れて、上手なはったりや、一貫性のある説得ができない。ただ、願うことをそのまま唇に乗せた。
「あたしの仲間の命がかかってるの。……どうしても指輪を渡してくれないの?」
「渡せない」
 何かを宣告するように、冴え冴えとコヨーテの声が響いた。
 
 彼が動く様子は無い。彼はさほど時間を気にしなくてもいいからだ。
 シェリルから仕掛けなくてはならない。接近戦での勝算は皆無に等しい。距離を取って、術を使わなければ、決して勝てない。
「そう……じゃあ、いい。辺境伯の次男のとこでも、どこでも勝手に行けばいいよ」
 シェリルは一度引いた振りを装い、肩から力を抜いた。
「諦めるの?」
 からかうようなコヨーテの声が響く。だが彼の目は笑っていなかった。
「だって、あたしがこの状況であなたに勝てない」
 溜め息を落とすと、彼に堂々と背を向け、通路を元来た方へと力無く戻り始める。
 コヨーテが追ってくる気配は無い。彼女の演技にまるっきり騙されたのでもないだろうが、警戒しているのかもしれない。
 気は焦ったが、いきなり走り出したりして、彼女の意図を見抜かれては駄目だ。焦ってしくじったのは、つい昨日のことだ。目的の為には、少しの時間を犠牲にすることも必要なことがある。
 十分に距離が離れたところで、彼女はそっと後ろを振り返る。彼女が作った魔術の明かりでは、もうコヨーテの姿は見えなかった。
 この通路は石に囲まれて窓も隙間も無い。明かりを消して真闇にすれば、いくら夜目の効く彼でも見えなくなるだろう。火を起こすような道具も無いはずだ。
 シェリルは解呪の一言を唱える。指先の光が消え、通路は無明の暗闇に包まれた。
 時間が勝負だ。
 狭い通路の石壁に手をついて、瞬時に集中力を高め、呪文を唱える。コヨーテにシェリルの姿は見えないはずだが、接近されて長針でも投げつけられれば終わりだ。慎重な彼は、呪文の声が聞こえたところで、暗闇の中、いきなりこちらに向かって走り出すようなことはしないだろうが、ひとたび駆け出せば、足の速い彼にあっという間に距離を詰められる。 
 脱出路と思われるこの通路の、反対側に向かって彼が逃げ出すなら、しめたものだ。最も都合がいい。
 意識を集中し、瞑想に入ったシェリルは、外部の音や気配がほとんど遮断されてしまう。だがどのみち暗闇の中では同じことだ。代わりに目を閉じた彼女の意識いっぱいに広がる、魔術的な精神世界では、彼女が今通路の天井から床、両壁の間に蜘蛛の糸のように張り巡らせた光の糸が見える。意識をさらに奥へと進ませると、おぼろげにコヨーテの意識が見えてくる。戸惑っている彼の表層的な思考が、ぼんやりと伝わってくる。
 もっと彼の思考や意識の深いところまで読めたらいいのに。
 そういった術もあるが、他人の心の深い部分まで入り込む魔術は極めて危険とされる。人間の意識の奥深くは、底知れない深淵に繋がっている。潜ったが最後、戻ってこられないことが多い。
 彼がシェリルの方に向かってくるなら、彼女の目の前の通路一杯に張った不可視の魔術の網が、彼を捕らえる。彼が反対方向に逃げるなら、光の網をほどいて糸に戻し、通路まっすぐに伸ばして、逃げる彼を捕らえるのだ。
 コヨーテの意識を魔術の視界の中で捉えたのだから、このまま光の網の術を解いて、彼に眠りの術をかけてもいいが、気を張り詰めている今の彼には効きづらそうだ。やはりコヨーテが動くのを待った。

 コヨーテが動いた。
 どんなに集中したところで、意識の動きを読むだけでは、肉体の物理的な動きまで正確には把握できないが、方角などの大雑把なところは分かる。こちらに向かっている。
 近づいたら、通路に張った魔術の網で彼を絡めとる。その瞬間に備えて、シェリルは意識を一層尖らせる。

 左腕に鋭い痛みを感じた。
 集中が途切れる。頭の中に広がっていた、意識の世界、魔術の視界が瞬時に消え去る。目を開けた。
 塗りこめたような暗闇ではなかった。
 小さな明かりが少し離れたところに灯っている。石造りの無機質な通路を照らし出していた。
 何故、何の明かりなのか考える間もなく、それが近づく。左手に明かりを持ち、右手に抜き身を手にしたコヨーテだ。
 後ずさったシェリルの踵が、何か固い物を踏みつけた。視線を落とすと短剣が目に入る。牢屋から出る時に、コヨーテが兵士から奪い、彼女に渡してくれた短剣は、ベルトに挟んである。別の物だ。
 気を取られたのはほんの一瞬だが、顔を上げると目の前にコヨーテが迫っていた。彼が左手の指先に灯しているのは、先ほどまで彼女が灯していたのと同じ、魔法の光だ。
「真っ暗にして、僕の動きを封じたと思った? 目くらましは心得があるからね、これぐらいの光の術なら使えるんだ」
 嘲笑を張りつけて、コヨーテが近寄る。
 術を使えるのは自分だけだと思っているのが、シェリルの慢心だ。随分と昔、誰かに言われた覚えがある。同じ失敗を繰り返してしまった。
 光を灯した彼には、通路の奥で目を閉じて集中していた、シェリルの無防備な姿が丸見えだったに違いない。用心深いコヨーテはいきなり近寄ろうとせず、彼女の腕を狙って短剣──フレデリックから奪った物だろう──を投げつけて、彼女の集中を解いたのだ。 
 彼の剣の切っ先が届かないよう、後ろに下がって間合いを取ろうとするが、彼は油断ない足取りでそれを詰めてくる。
 短剣を抜いた。
 抱き合っている最中、彼自身に彼女の内部を深く抉られながら、いつもどこかで、彼にこのまま引き裂かれて、悦楽の内に死んでしまってもいいと考えていた。
 けれど脳が冷め、肌も唇も、髪の先すら触れ合っていない今、彼になら殺されてもいいなどとは思えない。仲間の為に動けるのは、今、広い世界で自分しかいない。いずれ運命の手が私の命を摘み取るとしても、それは今ではない。
 こんなところで死ねない。
 先ほど司祭が投げつけた短剣が右腕を傷つけ、今コヨーテに短剣で傷付けられた左の上腕からも、まだ血が流れている。だが痛みは感じなかった。
 コヨーテが彼女の足を狙い、掬い上げるように剣を振った。跳ぶように後ろに下がってよける。
 彼はすぐに剣を翻し、上から斬りつけてくる。避けることが及ばず、短剣でその一撃を受けた。重い。屈強ではない彼の剣は、非力な彼女にはそれでもやはり強烈だった。
 時間ができたこのところ、スタンリーに剣の扱いを教えてもらったりしたが、それでもコヨーテには敵いそうもない。
 彼はすかさず太刀筋を変えて、剣を振り上げる。下がってどうにかかわした。もうシェリルの息は上がっている。
 コヨーテの頭が少し沈んだと思った瞬間、視界が傾いだ。
 足払いをかけられたと思う間もなく、彼女は後ろ向きに転倒していた。

 短剣は手放さなかった。倒れたまま、それで彼の脚に切りつけようとしたが、右手を踏みつけられる。
 喉元に剣が突きつけられた。
 固く冷たい石の床に横たわる彼女を、男は無表情に見下ろしていた。
「……諦めなよ」
「諦めた。一人でさっさと行けば」
 言葉とは裏腹に、黒い瞳の奥に頑なな気概を秘めて、シェリルは言った。
 彼女の様子は、彼に苦笑いを起こさせた。
 彼女をここに置いて、彼が一人でここから抜け出そうとするなら、この魔女が後ろから懲りずにまた魔術を仕掛けてくるのは間違いない。
 恥じらいから動けないように、服を剥ぎ取っていくか。たまに彼が敵である女に使う手だ。しかしシェリルのこの様子では、たとえ下着まで剥ぎ取って全裸にしたところで、構わず追いかけてくるだろう。その様子を想像すると可愛らしいが、術でも使われれば、彼に取っても笑っていられない事態になる。
 ベルトか何かで縛り上げておけば、魔術は使えないはずだ。
 だがそうすれば、この通路に教皇庁の司祭の死体と共に残されたシェリルは、どんな目に合うだろうか。肝心なところでツメが甘い彼女は、言葉巧みにうまく立ち回って疑いを解くことができるのか。しくじれば、司祭殺しの重罪人として教会の拷問にかけられた挙句、火あぶりだ。
 見知らぬ他人に彼女の運命を委ねるくらいなら、この場で彼が手を下した方がいいかもしれない。

 シェリルの喉元から剣が引かれた。ぎりぎりと踏みつけられていた右手からも、重みが失せる。
 彼は剣を納め、シェリルから一歩退いた。彼女は慌てて短剣を掴んで起き上がる。
「やめた」
 油断なくコヨーテを睨みつける彼女に向かって、彼は苦笑いを浮かべて呟いた。
 意味が分からない。しかしシェリルにも、それまで彼を取り巻いていた、ぴりぴりとした冷たい棘のような雰囲気が消え去っているのが感じられた。
 それでも短剣を構えて、摺り足で後ずさるシェリルに向かい、彼は服の襟元に無造作に手を差し入れると、首から掛けた長い鎖を引っ張り出してみせた。先端には鈍色に輝く指輪がぶら下がっている。
 シェリルの見ている前で、彼はそれを首から外し、彼女の目の前に突き出した。
 慎重に様子を伺っている彼女に、小さな笑いを漏らし、彼は口を開く。
「とりあえず、受け取って。でも僕の話を聞いて欲しい」
 何の罠だろう。だが、先ほどの彼は、その気になれば彼女の命を奪えたはずだ。他意は無いのかもしれない。
 シェリルはゆっくり手を伸ばし、彼から指輪を受け取る。素早く目を走らせると、前に一度見た時と同じ、古代語の刻印が指輪の内側に刻まれているのが見えた。本物のようだ。
「なんで、今更くれるの?」
「君はどうやったって、退かないでしょ」緩く腕を組んだコヨーテの表情は穏やかだ。「確かに辺境伯の次男からの報酬は魅力的だけどね、君を犠牲にしてまで欲しいもんじゃないと思ったんだ。それだけ」
 彼の言葉は胸を打った。彼に短剣を向けたものの、万一勝ち目があったとしても、それで彼を傷つけ、彼の命を奪える自信は、実のところ全く彼女に無かった。彼の方もある程度は、似たような気持ちを持っていてくれたのだ。今の彼の話が、本当だとすれば。
「それを受け取った上で、聞いて。指輪を渡さずに話しても、説得力が無いからね」
 微笑んでいた彼の表情が、再び硬くなった。シェリルは指輪のついた鎖を首からかけながら、黙って彼の次の言葉を待つ。
「さっきも言ったけど、どう急いでも、もう間に合わない。今から馬をすっ飛ばしたところで、着いた頃には君の仲間は殺されていて、奴らが残っていれば、指輪を馬鹿正直に届けに来た君も殺される」
「そうかもね」顔色も変えずに仲間の死を語る彼に、震える声で言い返す。「でも、分からない。もしかしたら、一日くらい生かしてくれているかもしれない。それにあたしの仲間たちは有能だよ。隙を見て、逃げているかもしれない」
「相手は暗殺者ギルドの幹部だよ。隙なんか無い。行っても無駄だ。……現実的に考えてよ。利益だけを考えて言ってるわけじゃない。指輪を持って、辺境伯の次男に保護を願い出るのが、君の身に取って一番安全なんだよ」
 コヨーテは一度言葉を切ると、僅かに顔を歪めた。
「ここで助けた君の命を、無駄死にさせたくない」
 彼の表情は少なからず彼女の胸をかき乱した。しかし彼女はかぶりを振った。
「あなたの言ってることは正しいと思う。一番安全で無難だと思う。でも、あたしは仲間に絶対戻るって約束したの。彼らがたとえ殺されていたとしても、遺体くらい見届けなきゃいけない。誰も、彼らの死すら知らないままなんて、あんまりだから」
 涙が滲み、嗚咽が漏れそうになるのを、唾を飲み込んで抑えた。
「……あたしが、それでも戻るって言ったら、この指輪を力ずくで取り返す?」
 コヨーテは一瞬目を伏せ、小さな溜め息をついて首を振った。
「ううん。今、言ったよね。君を殺してまで、欲しい報酬じゃないって。それに君の気持ちを踏みにじりたいわけじゃない」

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~ Comment ~

re: 拍手お返事 >Kさん 

こんばんは。
再び拍手&コメント、ありがとうございます!

命がけの勝負でしたね。
どちらも、それでも思い切れなかったようですが…結局、この場合はどっちが勝ったんでしょう(笑)
五話の最後まで、もう少しですが、最後までお付き合いいただければ…幸いです。
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