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ココナッツ図書館 夜間書庫

魔女とコヨーテ」
第六話 道の先

第六話: 道の先 15

2009.11.17  *Edit 

 その夜、街道にある慎ましい一軒宿は、意外に賑わっていた。シェリルたちを含め、数組の巡礼者の他に、小さな隊商の一行、そして四人組の旅芸人が宿泊していた。
 芸人は三十歳前くらいの、成熟した歌姫を中心にして、歌と演奏を聞かせていた。コヨーテとの会話はほとんど無かったので、食堂に美しい歌声と、どこかもの悲しい旋律が流れるのは、ちょっとした救いではあった。しかしおかげで、食事中に口を開くきっかけもつかめず、やはり彼に詫びるには、寝台の中しかないとシェリルは思っていた。
 美人ではないが、すらりと細身の体で、張りのある低い声で歌う女を見ていて、昔、仲間たちと旅芸人の真似ごとをして、谷の村に潜入したことを思い出す。あんな風に調子よく歌っていたシェリルの後ろで、突然踊りと演奏を始めたのが、美貌の踊り子と、リュート弾きとして同行していたコヨーテがいる一団だった。
 歌姫の後ろで、竪琴を弾いている少年を見て、あの大きな体のサムソンが、太い指で同じように、繊細な旋律を爪弾いていたことが浮かぶ。
 他にもう一人、リュートを弾いている男がいたが、芸人四人の内、最後の一人は演奏に加わらず、客のいるテーブルを回っては、なにやら話している。代金を集めているのかと思ったが、どうやらカードを使った占いをしているようだった。歌姫と比べるとまだ若い、シェリルよりも年下の、日焼けした肌の少女だ。
 芸人による占いや手品が好きなシェリルは、彼女がテーブルにやってくるのをそわそわと待っていた。それがきっかけで、コヨーテとの間に会話が復活するかもしれないとも思っていた。
 隣のテーブルで占いを終えた少女が、シェリルたちの方を見やる。目が合うと、彼女は微笑んだ。彼女も美人というわけではないが、愛嬌のある可愛らしい顔立ちだった。
 少女がカードを持ってシェリルのテーブルにやってくると、彼女に背を向けていたコヨーテは、驚いたようだ。だが、微笑む少女に対して、すぐにそつなく微笑み返した。
「占いだけど、どう? 旅の行方、ふたりの愛の行方、子宝、お金、仕事まで、何でも占っちゃうよ」
「ねえ、何か占ってもらわない?」
 シェリルはやっとコヨーテを正面から見つめ、屈託を押し殺した笑顔で声をかけた。
「お好きにどうぞ」
 第三者が同席しているせいか、彼の声は昼間より幾分柔らかい。しかし視線は冷えたままだった。
「何がいい? 新婚さん? それならやっぱり、ふたりの愛の結晶のことかなぁ?」
 芸人娘はいたずらっぽくシェリルたちふたりの顔を見渡した。コヨーテの表情は変わらなかったが、シェリルは顔を強張らせまいと、却って妙な表情に歪めてしまった。
「子供はまだいいよ」
 シェリルがぎこちなく、静かな声で告げると、娘はくすくすと笑った。
「照れちゃって。──ね、ダンナさん、あなたもこんな可愛い奥さんもらったんだから、頑張らなきゃだめよお。あんた、ひょろひょろしてるから心配だな」
 娘はコヨーテに顔を向け、天真爛漫に話し続けた。コヨーテは苦笑いを返す。
「そうだね」
「女はねえ、淋しいとすぐ気持ちが他へ逸れちゃうから、ちゃんと捕まえててあげなきゃ。毎晩可愛がってやって、早く子供こさえてやるのが一番」
「いいの!」
 下世話な話を明るい声で語る娘に向かい、ついシェリルのきつい声が飛んだ。少女だけでなく、コヨーテも軽く目を見張る。
 子供など、ふたりの間には決してできない。それを娘が知る由もない。彼女に悪気は無いのは分かっていたが、無神経にシェリルとコヨーテの心をかき乱されて、つい苛立ちが湧いた。
「ごっめん、ちょっとぶっちゃけすぎたかな。奥さん、育ちが良さそうだもんね。お下劣な話してごめんね。さ、別のこと、何を占う?」
 見た目によらず、おとなびた口調で、娘はシェリルの怒りを受け流した。気分を切り替えるように、シェリルに笑いかけてきたが、強張った顔が元に戻らない。
 沈黙が気まずくなる前に、コヨーテが口を開いた。
「じゃ、僕らの旅の行方を頼もうかな。無事に西の聖地に辿り着けるかどうか」
「オッケー。いい結果出るよ、きっと」
 快活に頷き、娘は絵柄が描かれた古びたカードをかき混ぜて、並べ始めた。
 カードをすべて並べ終え、絵柄を読んだ娘の顔が曇る。しばらくの沈黙の後、曖昧な笑顔で彼女は語った。
「……占いは占いだからね。あんまり本気にしないで欲しいけど、気をつけるに越したことないと思う。できれば二人じゃなくて、幾人か道連れを作った方がいいよ」
 シェリルはカードを使った占いに詳しくはないが、多少の知識はある。テーブルに並べられたカードの頂点に出た絵柄は、『停止』『終焉』を意味する絵柄のカードだった。それは『死』と解釈されることもある。

 励ますような言葉を幾つか並べ、占い師の娘が席を立った後、シェリルもコヨーテも空気を打ち消そうとするかのように口を開いたが、会話は途絶えがちだった。
「お風呂、遅くならない内に借りようかな」
 食後すぐ、シェリルはそう言って席を立った。
「そうしなよ。僕はもう少し飲んでる」
 腰掛けたままシェリルを見上げる彼の笑顔は、愛想笑いに近かった。
 苦い気持ちで見送られながら、シェリルは自分の部屋に洗面用具と替えの下着を取りに行き、中庭にある風呂へ向かった。
 辺境伯領を歩いている最中は、水浴びをするのがやっとで、風呂など一度も使えなかった。夏と言えど、熱い湯に浸かって汚れを落とせるのは嬉しい。
 金を払って風呂を使う旨を告げると、釜型の風呂に主人はすぐに火を入れてくれた。同じ湯を使い回すことにはなるが、沸かした湯を浴槽に溜める桶型の風呂より、遥かに早く準備が整う。
 丁度いい具合に湯が温まったところで、シェリルは自分で火を止めて、風呂に入った。髪と体を洗い、洗濯を済ませる。日中汗をかくことが多いので、体は毎日どろどろだ。
 洗った髪を束ねて、ふと顔を上げる。視線の先に、湯気を逃がすための小窓があるが、そこから顔が覗いていた。
 恐怖に目を見開く彼女の前で、小窓の向こうの顔は姿を消した。
 のぞきだ。
 一瞬、亡霊か暗殺者かと思い、心臓が止まるかと思ったが、ただの痴漢だろう。そう気づくと今度は怒りが湧いた。小窓はかなり高い位置にあるのだが、風呂場の側に積んである薪でも置いて、その上に乗って覗き込んだのだろう。
 憮然と小窓の戸を閉め、やはり無用心だから風呂を使う間、コヨーテについていてもらえばよかったと思った。けれど甘えるなと言われたばかりで、彼を頼るのは非常に言い出しにくい。
 シェリルが用心すれば済む話なのだ。
(もっとしっかりしなくちゃ)
 昼間、彼が言ったことは、もっともだと思えた。一体いつから、疲れた、暑いなどと、八つ当たりをするような人間に成り下がったのだろう。仲間たちと旅をしていた時は、こんなことはなかった。
 今夜コヨーテに謝って、明日から心を入れ替えよう。
 自分自身に、コヨーテと同じくうんざりしながら、それでも気を取り直してシェリルは風呂場から外に出た。

「ねえ」
 建物に向かって踏み出したところで、後ろから声がかけられた。
 振り向くと、シェリルより二つ、三つ年下に見える少年が、ばつが悪そうに彼女を見つめている。長身で体つきもがっちりしていたが、柔和そうな童顔の男だ。隊商に同行している、荷運びの少年だろうかと思った。
「ごめん、さっき……。ちょっと覗いちゃった」
 訝るシェリルの前で、少年は視線を逸らしながら告げた。
 覗きはこの男か。
 しかし怒りが湧いたのは一瞬で、どう見てもシェリルより年下の、純朴そうな青年を前にして、あっという間にそれは溶けてしまった。
「俺、さっきまで風呂使ってたんだけど、入れ替わりにあんまり可愛い子が来たからつい……許して」
 黙っていれば分からないのに、わざわざシェリルを呼び止めて詫びるとは、余程正直な性質なのだろう。それにこんな少年に、あまりに可愛かったからと言われれば、正直なところ悪い気ばかりはしない。シェリルは苦笑いを浮かべて答えた。
「もう、こんな失礼なこと、他の人にもしないでね。怖かったよ」
「ごめん。しないよ。女の人の風呂を覗いたのなんか、初めてだよ」
 少年に取って、自分がそんなに魅力的に見えていたのかと思うと、僅かにシェリルの顔に血が上った。体ごと少年に向き直った彼女の顔は緩み、それを見て少年も照れ笑いを漏らした。
「ねえ、ちょっと話していかない?」
 純朴だが快活そうな少年にそう訊かれ、やぶさかではなかったものの、洗濯物や洗面道具を持ったままだし、人気の無い中庭でというのは気が引けた。一度荷物を置いて、食堂で話してもいいだろう。その時、見知らぬ男と話しこむシェリルを見たコヨーテが、どんな顔をするか見てみたいような気もした。
「いいけど、荷物置いてくるから、食堂で待ってて」
 そう言って踵を返そうとするシェリルの腕を、少年が掴んだ。
 警戒心が急速に戻ってくる。彼女は少年を睨み上げた。だがその視線に気づかず、熱に浮かされたような瞳で、彼はシェリルを見つめていた。
「今、ちょっとだけでいいから話していこうよ。ねえ」
 少年はいきなり太い腕でシェリルを抱き寄せた。彼女が抱えていた荷物が地面に落ちる。容赦のない力を感じて、恐怖が満ちた。
「やだ……やめてよ!」
 建物はすぐそこだったが、裏口の扉は閉められており、食堂の喧騒に紛れて彼女の声は誰にも届いていないようだった。少年を押し退けようとしたが、びくともしない。
「ちょっとだよ。ちょっとキスだけさせて。君、可愛いから……」
 顔を逸らしたシェリルの耳に、濡れた唇がぶつかる。風呂場で女の裸体を見て興奮したらしい少年の、湿った吐息が顔にかかる。背中に回った少年の手が、下に下りて彼女の尻を掴んだ。
「やだ! いや!!」
 腕の動きを封じられた彼女は、男の脚を蹴り付けた。非力な彼女が蹴り付けたところで、大柄な少年はやはり微動だにしなかったが、シェリルの甲高い悲鳴を耳にした彼は、やっと彼女の体を離した。
「ごめん、ごめん。冗談だよ。ちょっとからかったんだ」
 歪んだ笑顔で少年は言い、シェリルを押し退けるように、建物へと押しやった。
 何が冗談だ。見知らぬ男にいきなり抱きすくめられて、どれだけ怖かったか。文句を言ってやりたかったが、体が震えて声が出ない。
 冒険者生活をしている頃も、たまにこんなことはあった。だが当時はマライアとほとんど一緒にいたし、シェリルの声を聞きつければマライアが、マライアの声を聞きつければシェリルが駆けつけ、互いに庇い合うようにしていた。不埒な真似をしでかした男に、啖呵を切って怒鳴りつけてやったものだが、何故か今は声も出ない。やはりシェリルの自信と気丈さの半分は、マライアが分け与えてくれていたものだと、身に沁みた。
 小刻みに震えながら、小走りに建物に向かうシェリルの背後で、少年が吐き捨てるのが聞こえる。
「気取ってるんじゃねーよ、ブス」
 振り返って怒鳴りつけ、無礼な少年を引きずって、隊商の主人に引き渡してやりたい。けれど非力なシェリルにそんなことができるだろうか。
 仲間たちと一緒だった冒険者時代なら、ためらいもなくそうしただろう。危なくなれば、彼らがシェリルを助けてくれると確信していたからだ。いつでも彼らはシェリルの味方だった。
 冒険者として、腕利きの魔女として、王都では恐れられていたシェリルだが、結局その自信は仲間たちが与えてくれていたものなのだ。
 自分に対する情けなさに涙が浮かんだ。食堂に入る前にやっと拭い、嗚咽を抑える。
 食堂に戻り、真っ先にコヨーテの姿を探した。
 すぐに彼の姿が見つからなかったのは、一人で座っているはずの彼の向かいに、先ほどまで歌を歌っていた女が腰掛けていたからだ。彼は歌姫とそばに立っている他の旅芸人たちと談笑しているようだった。
 あたしが痴漢に襲われている時に。
 足音も荒々しくシェリルがそちらに歩くと、コヨーテは目を剥いた。
「……どうしたの?」
 久しぶりに見る、彼の心底心配そうな顔を見て、シェリルは自分の瞳から涙が零れていることに気づいた。
「もう、なによ!」
 自分で驚くほどの大声が口をついて出た。旅芸人たちが口を噤んで、彼女を見つめる。
「あたしが男に襲われているっていうのに、なんで女とへらへら笑って話してられるの!」
 テーブルを叩いて激高するシェリルの声は食堂に響き渡り、周囲の他の客たちも、シェリルたちに視線を向ける。
「ちょっと、なに? 大声出さないで」
 他人の注目を集めるのが嫌いなコヨーテは、慌てた様子で宥めるように穏やかに言った。しかしそののほほんとした口調は、シェリルの神経を逆撫でする。
「男に襲われたって、なに? どうしたの?」
「お風呂出たばかりのとこで! どうしてついてきてくれなかったの?」
「だって……」
 食堂に戻ってくるなり、突然泣き喚き始めたシェリルを扱いかねているコヨーテに代わり、歌姫が低い美声でシェリルに声をかけた。
「お風呂で痴漢にあったの? どんな男?」
「図体のでかい、若い男……」
 他人の前で泣いていることに気づき、涙を拭いながら抑えた声でシェリルは答える。
「あいつかい?」
 テーブルの側に立っていたリュート弾きに訊かれ、彼が指差す背後を振り向くと、裏口に通じる廊下から、先ほどシェリルを抱きすくめた少年が入ってきた。彼は悪びれるでもなく、まっすぐにシェリルに近寄ってくる。手には彼女が落とした着替えと洗面道具を持っていた。
「これ、落としたよ」
 シェリルと、彼女の周りにいた旅芸人の微妙な視線に気づかないのか、少年はのんびりと言い、シェリルに着替えと道具を差し出した。あまりに厚かましい態度に、何も言えずにいるシェリルの代わって、歌姫が荷物を受け取り、静かな口調で尋ねる。
「あなた……この子に変な真似した?」
 少年は驚いたような顔で首を振った。
「変な真似? してないよ。中庭でこの子を見かけたから挨拶したら、いきなり荷物を落として逃げ出したんだ」
「何言ってんのよ!」
 しゃあしゃあと言ってのける少年に対し、シェリルの怒りが跳ね上がった。
「あんたの方がいきなり抱き締めて、キスしようとしてきたんじゃない!」
「はあ? あんたこそ何言ってんの。自惚れてるんじゃない」
 人の好さそうな少年の顔が歪んだ。
「俺、ちゃんと綺麗な恋人いるもん。あんたみたいなちんちくりん、相手にするわけないよ」
「ちょっと、失礼よ」
 歌姫が少年を睨み、たしなめると、彼は肩を竦めた。
「俺こそいい迷惑だよ。せっかく荷物拾って持ってきてやったのに、変態扱いかよ」
 鼻を鳴らして、彼は隊商のテーブルの方へ去っていく。その背中に酒でもひっかけてやりたい。
「なに、あの男。許せない……!」
 歯噛みしながら、少年の背を睨むシェリルの腕を、立ち上がったコヨーテが取った。
「まあまあ、バカ相手にするより、早く寝よ」
 彼女はまだ腹の虫が収まらなかったが、彼は宥めるように笑いかけ、旅芸人たちに挨拶をして、シェリルの腕を引いた。その力は意外に強い。それ以上踏みとどまることができず、シェリルは引きずられるように、寝室に戻った。

「あのクソガキ……!」
 憤懣やるかたなく、寝室に戻ったシェリルが凶暴な声で吐き捨てると、コヨーテは苦笑いを含んだ声を上げた。
「まあまあ。バカは放っておきなよ」
「なによ、他人ごとみたいに!」
 彼女の災難を一緒に怒るどころか、笑っている彼に対して、苛立ちの矛先が向いた。コヨーテもそれを感じたらしく、溜め息をついて肩を竦める。
「僕に怒らないでよ。宿ん中って言っても、何があるか分からないから、気をつけてね」
「気をつけてってなに? 被害にあった、あたしが説教されなきゃいけないの?」
 気色ばむシェリルに、彼は慌てて首を振ってみせた。
「そうじゃないよ。でも気をつけることで、次回は同じ過ちが避けられるなら、気をつけた方がいいでしょ」
「結局、あたしが悪いって言ってるのと同じじゃん! すごく怖かったのに、なんであなた、あんな食堂で女の人とにやにや話しこんでるのよ」
 コヨーテの表情が曇った。彼が罪悪感を感じていると思った彼女は、さらにまくしたてる。
「あたしの方が被害にあったのに、男を意識して自惚れてるなんて、あんな大勢の目の前で侮辱されて……。なんでちっとも庇ってくれなかったの? あたしが本当にただの自意識過剰な女みたいじゃない」
「……それって、僕の役目?」冷めた声がシェリルを遮った。「君とあのガキの問題じゃないの? 君こそ、なんでその場にいなかった僕を責めるわけ? 僕に文句言うより、直接あいつに言ってやればいいじゃん」
「だって……」
「君も少し変わったよね。冒険者だった頃は、ちょっと痴漢にあったぐらいで、動揺するような子には見えなかったけど。ちっちゃい癖に気が強いところが可愛いと思ってたんだけどね。──まあ、あんなことがあった後じゃ、無理もないかもしれないけど、もう少ししっかりしてくれないと、僕も一緒にいて疲れるよ」
 コヨーテの台詞が終わる前に、寝台に転がっていた枕をつかみあげ、彼に思い切り投げつけた。不意を突かれた彼は、顔にぶつかる寸前に、固い枕を叩き落す。床にぼすりと音を立てて、古びた布の枕が転がった。
「あなたに何が解るの! 友達を亡くしたこともないくせに!」
 涙と共に叫んだ後に後悔した。なんて傲慢で、ひとりよがりのことを言ってしまったのだろう。けれど一度口から飛び出した言葉は、取り消せない。
 数瞬の沈黙の後、無表情のコヨーテは落ちた枕を拾い上げ、寝台に放り投げた。
「ごめん、その通りだね。知りもしないくせに、上から説教しちゃって、申し訳ない」
 謝らなきゃ。私も悪かった。言い過ぎた。八つ当たりだった。
 シェリルが言葉を探している内、彼は静かに続けた。
「ごめんね。ひどい目に合ったんだから、ゆっくり休んで。僕は下で少し頭冷やしてくるよ」
 謝らなきゃ。今日の昼のことも含めて。
 けれどシェリルが何も言い出せないでいる間に、彼は静かに扉を開けて部屋を出て行った。

   
 ひとりで寝台に横になりながら、シェリルは何度も涙を滲ませては拭っていた。
 コヨーテは戻ってこない。
 どうしてあたしはこうなんだろう。ちっぽけで弱すぎて、一緒にいて唯一心を許せる彼に、不安や怒りをぶつけずにはいられない。彼だってそんなに強い人間じゃないのに、どうして傷つけてしまうのだろう。
 今夜は抱き合えなくてもいい。罵られてもいいから、とにかく彼が部屋に戻ってきたら、意地も駆け引きも捨てて、まず謝ろう。
 やっとそう決心して、頭の中で何度も予行演習までしているというのに、コヨーテはなかなか部屋に戻らなかった。
 もしかして、とうとうシェリルに愛想を尽かして、ひとりで消えてしまったのか。あるいは、可能性は低いが、シェリルを泣かせてしまったことに対して、彼なりに罪悪感に浸っているのか。彼女に痴漢を働いたあの少年に、彼女に代わって陰険な仕返しでもしているのだろうか。
 心を乱されながらも、夜中になる頃には、さすがに昼間の疲れが出て、シェリルもうとうとし始めていた。
 だが眠りは浅かったらしい。部屋の前の戸口に足音を聞いた時、彼女の意識はすぐに覚醒した。
 帰ってきた。
 すぐに謝ろうと、彼女が緊張しながら部屋の扉が開くのを待っていると、話し声が聞こえた。
「明日、いつ頃出るの?」
 女の声だった。彼女たちの部屋の前で、誰かが話しこんでいるらしい。
「朝の遅めかな。早起きじゃないんだ」
 心臓が止まるかと思った。てっきり見知らぬ宿泊客かと思ったが、親しげな女の声に答えたのは、コヨーテの声だ。  
 まさか。
「あたしたちは、昼頃まで寝てるよ。ねえ……」
「勘弁して。朝までにもう一度会うのは無理だよ」
「ふーんだ、優男」
 女の声に聞き覚えがあった。歌姫の方ではない。あの占い師だ。
「とっとと奥さんのとこ帰ってやんな。新婚早々よそでつまみ食いばっかしてると、ほんとに愛想尽かされるよ」
「余計なお世話だよ。じゃあね。おやすみ」
 笑いを含んだコヨーテの声が近くなり、扉が開いた。シェリルは咄嗟に目を瞑り、眠った振りを装った。
 僅かに顔を覗き込まれる気配がする。心の中では暴風が荒れ狂っていたが、呼吸も乱さずに、彼女は寝た振りを続けた。
 衣擦れの音がして、掛け布が捲くられ、すぐに隣に慣れた重みと体温が落ちた。
 今の会話はなんだろう。
 あの若い魅力的な占い師と、コヨーテの間で交わされた、親しげな会話は、なんだったのだろう。
 ほどなくコヨーテの寝息が聞こえてきた。それが全く乱れなくなったのを確認して、シェリルはそっと身を起こした。
 涙が次から次へと溢れてくる。嗚咽が漏れそうになり、慌てて彼女はすっぽりと服を被り、部屋を出て厠へと向かった。
 真夜中だった。月は沈みかけ、宿の中は暗闇と静寂に閉ざされていた。
「う……く……」
 厠に入って閂をかけるなり、こらえていた嗚咽が溢れ出した。真夜中の厠の中とはいえ、号泣するわけにいかない。声を殺して、彼女は泣き続けた。
 前にも同じようなことがあった。あれも真夜中で、真夏のことだった。
 コヨーテが美しい踊り子と背後で交わる声を延々と聞かされ、彼らが寝静まった後、厠でひとりで泣いた。
 コヨーテの側に、恋人して別の女がいることが、当時とても苦しかった。
 けれど、目の前にあるなすべき仕事、そして何より仲間たちと過ごす内、その苦しみは薄れて消えていった。
 マライアと愚痴を言い合い、イーミルと組んで曲芸に精を出ている内、コヨーテと踊り子のことは脳裏から締め出されていった。
 けれど今は、コヨーテから目を逸らさせてくれるようなことも、人も、彼女の周りにはない。

 会話の内容からして、彼があの占い師と、ただ夜中まで飲みながら話し込んでいただけではないのは、間違いないだろう。
 美人ではないがどこか魅惑的な女を、彼は抱いてきたのだ。
 シェリルの髪を撫でる手で、あの女の褐色の肌を撫で、体の中に指を潜り込ませてきたのだ。
 王都にいるシェリルを彼が訪ねてきていた頃、恐らく彼は他にもそうして女を抱いているのだろうと、漠然と想像はしていた。
 だがコヨーテの礼儀なのか慎重さなのか、他の女を感じさせるようなことを、彼は彼女の前で言ったことも見せたことは無かった。
 夫婦ではないから。恋人でもないから。彼女があまりに我儘で、彼をうんざりさせているから。
 だから他の女を抱くのだろうか。そして彼に対して、シェリルは何も言えないのだろうか。
 彼を自分のものだなんて思っていない。それは昔と変わらないはずなのに、どうしてこんなに苦しくて、彼女が侮辱されたように感じてしまうのだろう。
 他の女に触れないでと言ったところで、選ぶのは彼だ。他人の心を操るなんて、できはしない。
 もう駄目だ。そうするまいとしても、彼に依存しすぎている。このままでは、お互いに傷つくばかりだ。
 離れた方がいい。王都に引き返そう。
 路銀はある。王都を出てすぐの町で、コヨーテはシェリルが渡した耳飾りを片方売り払った。その金のきっかり半額を彼女に渡してくれている。丁寧に研磨された上等の貴石だ。少ない額ではなかった。もう片方の耳飾りは、彼女が告げた通り、丸ごと彼のものになったらしい。そういう男だとは知っていたので、その点については、とりたてて不満は覚えなかった。
 シェリルは王都で傷を癒していた頃のように、金の管理はしまり屋のコヨーテに任せてもいいと思っていたが、道中の食事代や宿代は折半、飲み物代はそれぞれが頼んだ分を払うということで、財布の紐はそれぞれが握っていた。彼らしい方法だが、今思えば互いに依存しないための、彼なりのけじめだったのかもしれない。以前コヨーテは、肉親にでも自分の金は預けないと言い切っていた。
 こんな時に金の問題で悩まずに互いが離れることができるように、彼はごまかしもせずに、耳飾りの代金半分をシェリルにくれたのかもしれなかった。
 ギルドを出奔し、彼についてきてしまった後悔を修復するために、彼女がひとりで王都に引き返せるように。
 だが現実的にそんな勇気は無かった。シェリルひとりで、またあの辺境伯領を越え、無事に王都に戻れるだろうか。街道に追いはぎが跋扈するだけではない。傭兵たちに賞金まで掛けられているのだ。無事に王都に帰り着くことは奇跡に近い。
 そして何より、コヨーテと二度と会えないのは、耐えられそうになかった。今は路銀となった耳飾りを外した夜のことが蘇る。薄汚い娼館の一室で、人生の底辺にいながら、全てのものへの最も熱い情熱を感じたひとときだった。
 でも今は。
 どうしていいか分からず、涙が収まるまで、シェリルは厠で声を殺して泣き続けた。


 *****


 部屋に戻ると、半分だけ開け放した窓から、月の光が差し込んでいた。昼間は寒かったが、夜になって湿気が増し、気温が上がってきたので、シェリルが窓を開けて寝たのだろう。日中降っていた秋の初めの雨は、止んだ後に美しい夜空を見せ、再び夏の香りを淡く漂わせている。
 彼は寝台で眠るシェリルの顔を覗き込んだ。丁度月光は寝息を立てている娘を照らしている。満月に近い、眩しいほどの明かりによって、彼女のまぶたが腫れているのが分かった。寝る前まで泣いていたのだ。
 彼はシェリルが本当に寝ていることを確認すると、屈んでそのまぶたにくちづけた。寝台に広がる黒い髪をそっと撫でてやる。
 随分長い間、目が覚めている彼女にそうしてやっていない。以前は髪を撫でると喜ぶシェリルの顔が見たくて、抱いている時はもちろん、歩きながらでも意味もなくそうやって髪を撫でてやっていた。
 立ち上がった彼は服を脱ぎ、下着姿で、シェリルの隣に滑り込む。ここのところ、シェリルはいつも彼が眠る方に背を向けて、胎児のように体を丸めて眠っていた。
 背後から重なるように、横たわったまま彼女に胴に手を回して、彼女が目を覚まさないよう、遠慮がちに抱き締めた。シェリルの丸い形のいい尻に、彼の股間を押し当てる。しかし今しがた、二度も精液を吐き出した彼のそこは、もう熱を持つことはなかった。
 シェリルの柔らかい体を抱き締めながら、先ほど抱いてきた女のことが頭を掠めた。
 三人姉妹などと言っていたが、やはり嘘だろう。旅の間、体を売って娼婦の真似事をしている、落ちぶれた貴族娘に違いない。連れている年少の女二人は、どこかで見つけた道連れで、同じことをさせて金を稼がせているのだ。
 楚々とした外見によらず、したたかな女だ。
 だが頭が悪い。

 シェリルを残して一人で食堂に戻った後、しばらく女三人と話を続けていたが、頃合を見て、真ん中の妹と名乗る女が、年下の少女を連れて席を立った。二人になった黒髪の女と彼は、そのまま酒を飲みながら話し合い、思わせぶりな女の視線に応じて、彼は彼女を中庭へと誘い出した。
 厠の裏手の暗がりで、女の口を塞ぎながら、彼らは交わった。他に場所が無かったからだ。
 月明かりに照らされる細身の女の半裸の体は美しかった。やせぎすの女はあまり好みではないが、肌がきめ細かく、絹のような手触りだった。
 従順に彼の指示に従う女の喉と体の中に、二度射精した。時折人が近寄り、厠に入っていくたびに、彼は背中の奥にぞくぞくする感覚を味わった。別に他の客に見つかっても構わないが、シェリルに知られるような羽目になれば、後々面倒だ。仕方なく他人が来た時は動きを止め、女の口を強く塞いだ。女がその度に恐怖に満ちた眼差しを彼に向けるのが、鬱陶しかった。
 抱いた後は、女に対する興味は急速に失せた。彼の温厚そうな見た目に惹かれただけの女だ。いただくものをいただけば、あとは用はない。
「ねえ、あなたたちも西へ行くのでしょう? また、会えるかもしれないわね」
「会っちゃうかもね」
 慌しく性器を服の下にしまいこみながら、女を振り向きもせずに彼は答えた。女が次の言葉を放つ前に立ち上がる。
「そんじゃ、おやすみ。金は払わなくていいよね? 君から誘ったんだから」
 抱いている最中と豹変した彼の態度に、呆然としている半裸の女を置いて、彼はさっさとシェリルのいる部屋に戻った。
 肌を合わせたというのに、彼が抱えているものを何も受け取っていない、捕えていない、美しくても頭の弱い女と寝たのを、少しばかり後悔した。ひとりで部屋で眠っている、可哀相なシェリルは、初めて彼が貫いた時から、彼の心の隅を見通していた気がする。目の端で同じものを見ている彼女に、無性に会いたかった。

 他人の心など決して理解できないし、自分の心も理解してはもらえない。彼は知っている。
 だがシェリルはほんの少し、彼の心の内側を覗くことができ、少しばかりそこに溜め込んだものを受け取ってくれる。
 今のところ、そんなことができる女は、シェリルだけだ。そんなかけがえのない娘なのに、何故もっと大切にしてやれないのだろう。
 旅に出たばかりの頃は、彼女が喜ぶ顔を見ていると、彼も素直に嬉しかった。いつからそれが、時折苛立ちをかきたてるようなものになったのだろう。
 シェリルの八つ当たりだって、大したことではない。彼に心を許しているからこそ、彼女は甘えてしまうのだ。それを快く受け止めてやれない彼も、彼女に甘えている。
 今夜だって、シェリルは彼と話していたちょっと美しい女に対して、やきもちを焼いていただけだ。可愛いものではないか。問題は彼女がもっと上手にそれを表せないことだが、彼もそんな彼女の性格を分かっているつもりだ。
 なのに、何故。
 このままでは傷つけあうだけだ。
 明日は、もっと優しくしてやろう。少しばかりシェリルが彼に八つ当たりをしたとしても、軽く受け流してやろう。夜になったら、どんな女が彼に誘いをかけてきたとしても、疲れていても、シェリルを抱いてやろう。
 背後から固く彼女を抱き締め、首筋にくちづけた。これでシェリルが目覚めるなら、今からでも抱いてやっていい。明日起きられないかもしれないが、何とかなる。
 しかしシェリルは目を覚まさなかった。
 彼は初めて彼女を抱いた時のように、眠っている彼女が目を覚ますまで、体を探ってみようかと思った。
 しかし急速に疲れが襲ってきた。欠伸が口をついて出る。
 そっと溜め息を吐き、抱き締めていた腕を緩めると、彼は彼女に背を向けて、目を閉じた。

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~ Comment ~

RE: 拍手お返事 >可芳さん 

拍手、ありがとうございます!

あー、あっちで出た痴漢話、覚えていただいて光栄(?)です。
痴漢ってうまいこと撃退しても、こういうこと言ってくるので、どこまでも腹立たしいですよねー。
豚が鳴いてると思って、気にしないで受け流すのが一番ですが、シェリルはまだそんなことできないようです…。(私も…)
目をつけられないのが一番ですが、胸が大きいとそうもいかないんでしょうかね。…あー、私は楽でよかったー(泣)

二人の喧嘩は、ほんと、痴話喧嘩としか言いようがなく、それだけ仲良くなったってことなんですけど…。
ここまで来ると、結構深刻レベルですねえ~。
そういう男だと知っていても、浮気(?)を目の当たりにすると…(汗)
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