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魔女とコヨーテ」
第六話 道の先

第六話: 道の先 19

2009.12.01  *Edit 

 降り出した雨は徐々に強くなっているようだった。疲れた体をぬるい雨に打たれながら、シェリルたちは西側の領主の軍隊に挟まれて歩き続けた。
 後ろの方では、兵隊たちにあの三人姉妹が抱えられている。彼女たちのすすり泣きが聞こえてきた。他に続いている人間がいないところを見ると、行商の男たちは殺されてしまっていたのだろう。
 軍隊に助けられた時は、命拾いをしたと大いに安堵したが、シェリルたちの周りを歩いている兵士たちが、時折彼女に、好奇心よりももっと露骨な視線を向けてくることに気づいた。思わずそちらを見返すと、兵士たちは好色そうに顔を歪めた。コヨーテに触れて少しでも安心したかったが、たとえば手など繋いだままでは、もしもの時に対応が遅れる。拳を握り締めて不安を押し殺した。
 軍隊と言っても、こんな山の中で、追いはぎ退治と通行税の徴収の為に駐留しているような隊だ。よく考えれば、盗賊とそれほど性質は変わらないのかもしれない。
 絶体絶命の危機は取りあえず去ったが、まだまだ気は抜けなかった。
 
 木の根が少なくなり、少し潅木が切り払われた一帯に、木造の小屋が建ち並び、中央に小さい石造りの館が見えた。館の周囲は木の柵で囲まれている。急ごしらえだろうが、小型の要塞らしい造りをしていた。外壁には矢来も見える。関所の割には大仰だ。やはり盗賊が多いのだろう。
 兵士たちに先導され、シェリルたちは建物の中へと招かれた。
 内部も石を積み上げただけの無骨な造りで、装飾などはほとんど見当たらない。廊下に明かりなども取り付けられていない。外を歩いていた時と同じように、兵たちは松明を手に持って曲がりくねる廊下を歩いた。彼らとシェリルたちの服から滴る水滴が、暗い床で不快な音を立てる。
 建物の最奥にシェリルたちは通された。その後ろから、三人姉妹たちを抱えるように兵士たちが入ってくる。
 兵士たちの数は二十人近く。一人の怪我人も死人も出ていないようだった。飛び道具で不意打ちを受け、抵抗らしい抵抗もしない盗賊たちを、追い掛け回して虐殺しただけだ。それも当然だろう。シェリルたちと三姉妹が部屋に入るのを見届けると、その内の半分ほどは部屋から退出した。
 部屋は幾分広めだった。無骨な建物に不似合いな樫の大きな机と椅子が置かれている。他に家具や調度は無かったが、壁には鉄の輪がいくつか取り付けられている。今までの経験からして、罪人を縛り付ける為のものということは分かった。関所を通過する旅人を尋問し、通行税を取り立てる部屋なのだろう。大きめの窓には頑丈そうな鎧戸が閉まっていた。
 無造作に置かれた何脚かの丸椅子を兵士たちが拾い上げ、盗賊に強姦されかけて涙を流している姉妹たちを座らせてやっていた。シェリルも勧められたが、断ってコヨーテの側に立っていた。疲れていた体で椅子に座ると、気持ちまで緩んでしまいそうだ。
 シェリルたちと丸椅子に掛けた姉妹を壁際に一列に並ばせ、隊長が机の側の椅子に腰掛けて全員を見渡した。その周囲に兵士たち七、八人が立っている。どこか威圧的だった。
 服を引き裂かれ、互いに抱きしめあいながらすすり泣いている姉妹たちも、まだ本能的に不安を感じているのだろう。泣き止む気配が無い。長女の美しい色白の顔が、泥にまみれているのが哀れだった。
「巡礼者諸君、無事で何よりだったな。たまたま我らが盗賊どもが出没しないか、見回りをしていたところだったのだ」
 隊長と呼ばれたがっしりした体格の男は、腕組みをして足を机の上に投げ出した。隊長からしてこの様子では、やはり品行方正な隊ではないようだ。
「助けていただいて、ありがとうございました」
 コヨーテも思うところはあるのだろうが、頭を下げて丁重に礼を述べる。   
「なに、気にするな。巡礼者と旅人の保護は、我々の役目だ。税金を払ってもらえば、文句はない」
「それは、もう」
 コヨーテは不満を見せることもなく、もう一度深く礼を取った。彼は「ど」がつくほどのけちであるが、命と引き換えにするなら金を惜しんだりはしない。
「いかほどでしょうか?」
「有り金全部だ」
 しかしそんなコヨーテも、隊長の答えを聞いて目を剥いた。それでは盗賊が言っていることと同じではないか。
 隊長や他の兵士が何か言葉を吐くのを待ったが、彼らはシェリルたちを見据えるだけで、何も続けようとしない。上擦った声でコヨーテが答えた。
「それはご無体な……。私たちの旅は、これから先も続きます。幾分かは手元に残させていただいて……」
「誰のおかげで旅が続けられると思ってる。あの場で死んでたら、天国行きの旅路しか、お前たちには無かったんだぞ。身ぐるみ剥ごうってわけじゃない。財布ごと黙ってよこせ」
 隊長は語調を強めて、恩着せがましく言い放った。コヨーテは溜め息をつき、先ほどやっと拾い上げた財布を再び腰から外す。さぞ無念だろうと思った。
「奥さん、あんたもだ」
 目ざとくシェリルが腰から下げている財布にも目をつけたらしい。隊長は顎で彼女を差した。触媒を入れているポーチを、背中に回しておいてよかったと思いつつ、彼女も命令に従った。兵士の一人が近づき、コヨーテとシェリルの手から財布を取り上げる。
 悔しいが、命には代えられない。それに用心深いシェリルは、長靴の内側や、肌着の内側に、金貨を幾枚か縫いこんである。長い旅生活を経て、金は分散させる方がいいと、教訓を得ていた。恐らくコヨーテも同じような手は打っているだろう。
「さて、そっちのお嬢様方、怖い目にあったとこ悪いが、通行税は払ってもらわないとな」
 隊長は容赦なく、すすり泣いている三人姉妹に目を向けた。下の妹二人は、哀れっぽい泣き声を上げたが、長女と名乗った女は、涙に濡れた顔を上げ、震えながら、懐から皮の財布を取り出した。一瞬覗いた彼女の白い肩を、近づいた兵士が興味深そうに覗き込む。 
 三人から財布を取り上げた兵士は、隊長の足がどっかりと乗せられた机に財布を置き、中身を確かめた。姉妹たちの財布を覗いた隊長が、苦笑いを漏らす。
「おい、娘さん、あんたこんな金しか持ってないで、関所を通過するつもりだったのか? 世の中そんなに甘くはねえよ。他に金目のもんは無いのか?」
 まるっきり盗賊である。何が軍隊だ、笑わせる。義憤がシェリルの腹の奥で煮えていたが、無論この場で文句をつけることが、愚かであることは分かっていた。
「ありません……宝石や指輪なども、もう売ってしまいました」
 涙ながらに答える女に向かって、隊長は容赦なく言い放つ。
「そうか。じゃあ仕方ない。足りない分はあんたたちの体で払ってもらおうか」
 男は薄笑いを浮かべていたが、冗談ではないらしい。兵士たちが近づき、まだ涙を流している姉妹たちの腕を取った。色黒の肌の娘が小さな悲鳴を上げる。シェリルも思わず顔色を変えた。
「なにも強姦しようっていうんじゃない。こんな山の中じゃ、女になんかお目にかかれないんでね。お前らを助けた対価と通行税の足りない分を貰うだけだ。おとなしくしていれば、痛い目になんか合わねえよ」
 それが陵辱以外の何だというのだ。
 のんびりと言う隊長を、非難がましくシェリルが睨むと、思いがけず強い視線が返ってきた。
「なんだ、若奥さん。言いたいことがあるか。それともお前さんが、あいつらの代わりになるか?」
 当然、首を縦には振れなかった。盗賊たちよりは身ぎれいだろうが、あんな荒くれ男たちに抱かれるなど、想像するだけで吐き気がする。
 だがあの姉妹たちは──まだ十歳くらいの末の妹まで──、そんな目に遭わなければならないのだ。
 隊長はコヨーテに首を向け、声音を落として告げた。
「そういうわけだ。女たちはしばらくの間、貸してもらうぞ。お前も異存は無いな」
「ありません」
 無表情に答えるコヨーテに対し、男は軽蔑に似た表情を浮かべ、低い笑いを漏らした。
「女を連れていながら、守れもしない腰抜けめ。お前みたいな優男が、こんなにぞろぞろ女を連れているなんて、十年早いんだよ」
「私の連れは妻だけです。他の三人の女性は、山まで道連れになっただけで、関係の無い方々です」
 隊長の挑発的な物言いに、毛の先ほどの動揺も見せずにコヨーテは答える。隊長は面白くなさそうに肩を竦めた。
「そうかい。大した腑抜けだな。……まあいい。お前らからは十分に金を貰ったからな。今夜は雨だし、ここに泊っていけ。毛布ぐらい貸してやる」
 残酷な運命が待つ姉妹たちに悪いと思いつつ、シェリルは肩の力が抜けるのを覚えた。何とか無事に通過できそうだ。
 隊長は、そんな彼女に好色そうな視線を送り、続けた。
「男のお前は馬小屋で寝ろ。ご婦人は、我々と同じ建物で休んでいただいて結構だ」
 再び体中に緊張がみなぎる。シェリルにも無論、その意味が分からないはずはない。コヨーテと離されて、この本館で彼女を、ただ休ませてくれるわけはないだろう。
「いいえ、隊長。私も夫と共に馬小屋で休ませていただきます」
 シェリルはコヨーテに体を寄せ、思わず彼の腕を掴んだ。その仕草を見て、隊長はさらに皮肉な笑みを深めた。
「とんでもない。女性を馬小屋などで休ませるわけにはいかん。どうぞ我々と共に、この建物で休んでくれ。馬小屋よりは居心地がいいだろう」
 彼の語尾に合わせて、兵士たちが下卑た笑いを低く漏らした。
 冗談ではない。姉妹たちと共に、こんな連中の慰みものになるくらいなら、馬小屋で馬糞の匂いに包まれて寝た方が、ずっとましだ。
「お申し出はありがたいのですが」シェリルの手を握り返し、コヨーテが口を開いた。「私たちは夫婦ですので、離れて眠ることは考えられません。どうしてもと言われるなら、ここを出て野営します」
「オマエ、頭わりいな。女を一晩貸せって言ってんだよ」
 隊長の笑いがひときわ獰猛になった。年頃は二十代の後半くらいに見えたが、相当に実戦を積んだ、たたき上げの兵なのだろう。修羅場をくぐってきた人間の、独特の凄みが表情に見えた。それは時折、柔和な顔つきのコヨーテにも見えるし、シェリルは自覚していなかったが、彼女自身もそんな表情をまれに見せることがあった。
「あの女たちは四、五日預かるが、お前の女房は今夜だけでいい。たった一晩で、安全に関所を抜けられるんだ。安いもんだろ。この雨の中、野宿なんかしてみろ。肺炎起こして死ぬぞ。狼だってウヨウヨいるぜ」 
 言い募る隊長に、コヨーテはゆっくり首を振った。
「どうか勘弁してください。お金はすべて差し上げたはずです。足りないなら、この剣も差し上げますから」
「そんななまくら、いらねえよ。それよりお前の女房、いい体してるじゃねえか。まだ若いし、お前みたいな腑抜けしか男を知らないんじゃ、可哀相だろ」
 盗賊の親玉にしか見えなくなった隊長の言葉に合わせて、兵士たちが下品な声を上げた。
 すすり泣く姉妹たちを椅子から立たせ、彼女たちを連れた数人の兵士が部屋を出て行く。
「そうだ、奥さん。そんなひょろひょろの旦那より、俺たちの方がいいぜ」
「試しに俺たちとヤってみようぜ。逞しい男にヤミツキになるかもな」
「もう旦那じゃ物足りなくなるぞ」
 部屋に残った男たちに卑猥な言葉を投げつけられ、恥と怒りの為にシェリルの顔は紅潮した。だが、複数の武装した兵たちに囲まれた状態では、どうすることもできない。
「あの女性たちがいるじゃないですか。妻は見逃してください」
 息をついてコヨーテは静かな声で言った。しかし隊長からは嘲笑が返ってきただけだ。
「あいつらはあいつらだ。俺はお前の奥さんとやりたいんだ。……選べる立場じゃないのは分かっているだろう。断るなら、お前を叩き殺して女を犯すだけだ」
 背筋がぞっとした。一言もなく殺されてしまった、先ほどの年配の巡礼者の姿が浮かんだ。
 仕方ない。隊長という男の言う通りだ。姉妹たちを連れ出した兵士はまだ戻っていないが、部屋にはまだ武装した男が四人、隊長を合わせれば五人だ。ごろつき程度ならともかく、相手は一応訓練を積んだ兵隊だ。この広さのある部屋で、シェリルが術を使うまで、コヨーテ一人で時間を稼げる可能性は少ないだろう。
 勝ち目はない。
 コヨーテが殺されてから、兵士たちに陵辱されるか。それとも彼に馬小屋に閉じ篭ってもらいながら、一晩兵士の慰み物になるか。二者択一になるなら、彼が生きている方がいいに決まっている。
 コヨーテはシェリルを自分の背後に押しやりながら、壁際の隅へと摺り足で後退した。
「断る」
 コヨーテの低い声が、静まった野次の合間に響いた。
 すぐそばにいた兵士が唇を歪めて、彼を見下ろした。
「そうか。なら、しょうがねえ」
 男は無造作な足取りで近寄りながら、腰から剣を抜いた。
「おい、やめとけ」
 椅子に座ったままの隊長が、兵士の背後から声をかけたが、男はコヨーテの首筋に剣を突きつけようとした。
 何が起こったのか、シェリルには分からなかった。
 男は首筋を押さえて膝をつく。そこから鼓動に合わせて、真っ赤な血潮が吹き上がった。

 天井が真紅に汚れる。
 隊長を含め、兵士たちも呆然としている。誰にも、いつコヨーテが抜いたのか見えなかったに違いない。
 彼の右手にはいつの間にか短剣が握られ、切っ先にはごく僅かに鮮血が付着している。それだけの速さで兵士の喉を切り裂いたのだ。頚動脈から溢れた血が、刃をほとんど汚す間も無いほど。
 兵士たちよりシェリルの方が、我に返るのは一瞬早かった。
 こうなれば腹をくくるしかない。危険は多いが、コヨーテの背後で集中する。彼が時間を稼いでくれることを祈るのみだ。
「こいつ……殺しやがった!」
 兵士の一人が、一瞬で殺された仲間の死体を見下ろして叫んだ。斃れた兵士の喉からは、まだどくどくと血が溢れているが、断末魔の痙攣は既に止んでいた。
 それを合図にしたように、他の人間も色めき立つ。
「いきなり、なんてことしやがる」
「ただで済むと思うなよ。五人相手に勝てると思ってんのか」
 口々に吐き捨てながら剣を抜く兵士たちに向かって、緊張を解かないまま彼は呟いた。
「四人だろ。もう一人減ってる」
「このっ……」
 もう一人の兵士が彼に向かって踏み出そうとしたところで、部屋中に怒声が響いた。
「やめろ!」
 縫いとめられたように、兵士たちは動きを止める。その場にいる全員の鼓膜を打つほどの怒鳴り声を上げた隊長は、机に乗せていた足をやおら床に下ろした。
 関所の守備隊長は、巡礼者などと名乗った若い男に改めて目を向けた。兵士を一瞬で屠り、抜き身を手にした三人もの男に囲まれているというのに、欠片ほどの動揺も見せていない。善良な巡礼者などではないのは、間違いない。日常生活ではまず耳にしないような、彼の並外れた怒声を耳にしても、萎縮しているのはむしろ守備隊の兵士の方で、巡礼の男は顔色ひとつ変えていない。追い詰められた素人の決死の抵抗には見えなかった。
 最初の兵士の喉を切り裂いた早業といい、相当の手練れだろう。人数が多いとはいえ、迂闊に近寄ればどんな手を使ってくるか分からない。彼はそう考えた。
「でも隊長、こいつデニを殺ったんですよ」
 兵士の一人が、恐怖と怒りに震える声を上げる。しかし隊長と名乗った男の返答は乾いていた。
「だから、やめとけって言っただろう。忠告だと思ったか? 命令だ。無視して勝手に殺された奴のことなんか、知るかよ」  
 兵士たちの、恐怖を含んだ殺気は、急に凪いだ。代わって隊長が椅子から立ち上がる。

 灼熱する炎が二人の巡礼者の頭上に現れた。何の前触れもなく、中空に出現した火の玉は、薄暗い室内を照らし出し、熱気を放っている。
「そこから一歩も動くな!」
 若い女の場違いなほどに甲高い声が響きわたる。兵士たちは、巡礼の幼い妻がいまだ燃え盛る火球の下で、夫の背後で高々と手を差し上げているのを見た。突然の出来事に唖然とする男たちに向かって、彼女の低く抑えた声が放たれる。
「手の先でも動かしたら、この建物ごと焼き尽くしてやる。剣を捨てな」
 椅子から立ち上がった隊長はじめ、兵士達は表情を失った。突然、何もない宙に、燃え盛る炎の塊が出現する。その事象は彼らの理解を超えていた。
「妖術師だ……」
「魔法だ! 魔女だぞ、こいつ」
 誰かが呟くと、訓練を受けた兵士たちは、及び腰になりながら、口々に目の前の脅威を喚きたてた。女の掌の上で、ごうごうと音を立てて燃える炎の熱気が、彼らの顔をなぶり、揺らぐ火の光が目を灼いた。
「落ち着け」
 隊長の低い声が響くと、兵士たちの恐慌は若干静まった。しかし彼らは依然、渦巻く炎がいつ自分たちに襲い掛かるか、戦々恐々としている。
「こんな石の建物の中で、火を放ってみろ。お前らも一緒に蒸し焼きになるぞ」
「あたしたちは大丈夫」
 動揺を押し殺した隊長の声に対し、答えるシェリルの声も落ち着き払っている。
「魔術の炎は、術者を傷つけることはないの。──あまり試したくないのよ。あんたたちが命を救ってくれたことには、感謝してるからね。剣を捨てて、そっちの壁際まで下がりな」
 シェリルの手の上の炎が、ひときわ大きく膨らんだ。
 兵士たちは強烈な熱を肌で感じ、業火による死への予感に怯えた。夫の後ろで小さくなっていた巡礼の若い女が魔女だったとは、無論彼らは想像だにしなかった。男たちは指導者である隊長の顔を縋るように見遣った。

「隊長さん、あなたから剣を捨てるように命令してよ」
 押し殺したシェリルの声は、震えも狼狽も一切見せていない。これがひと月前、風呂場で痴漢にあったと泣き喚いていたのと、同じ女だろうかと彼は思った。
 小さな体の彼女の勇敢さは、やはり共にいた仲間たちに支えられていたのだ。
 自分ひとりの身を守るなら簡単だ。隠れるか、逃げるのが一番いい。彼はずっとそうしてきた。
 しかし共にいる他人を守らなければならないなら、それだけでは済まない。他人を守る為に、自分も前に出て、踏み留まらなければならない。今まで運命を共にしてきた仲間たちを守る為に、シェリルはそうして強くなってきたのだろう。生来の彼女は、彼以上に内気で繊細だったに違いない。
 だが彼は、背後に立ち、彼の背中に軽く触れているシェリルの手が、小さく慄いていることに気づいていた。
 シェリルが天井に向かって差し上げた、もう一方の手の上には、燃え盛る炎の渦がある。燃焼する音を立て、熱気を放ち、火の粉を飛ばして、まるで獲物を狙う肉食獣のような、獰猛な炎だ。 
 だがそれは、彼女が精霊の力を借りた、奥義による炎ではないと、彼は知っている。
 幻術だ。
 妙なところで生真面目なシェリルは、ギルドを抜け、魔術師の資格を失った自分に、奥義を使う資格もまたないと考えているようだった。旅路の途中、盗賊や賞金目当ての傭兵に何度か襲われた時も、精霊の力を借りた奥義を使うことなく、目くらましや小細工によって、危機を切り抜けてきた。
 今も彼女は、精霊から力を借りるのではなく、揺らぎ、音を立てて燃える、熱さえ感じるほどの、精巧な幻の炎を作り上げている。彼も幻術にはそれなりの知識と技術があったが、ここまで本物に近いものは作れないだろう。魔術の知識のある彼だからこそ、シェリルが手の上で、まるで生き物のように操っている火の玉が偽物だと分かるが、兵士たちはそれが幻だなどとは、つゆ思わないに違いない。
 だがはったりははったりだ。万一目くらましだと見抜かれたり、炎をかいくぐる覚悟で、兵士たちが襲ってくれば、一巻の終わりだ。幻では彼らの髪の毛一本も焦がせはしない。
 この土壇場で、奥義ではなく幻術を使うとは、いい度胸をしている。呆れ半分に、彼は感嘆した。
 確かに集中も制御も難しい奥義より、一度出現させれば、さして集中力も要らずに操れる幻術の方が、脅しに使うなら適している。
 幻術なら、使役した精霊が暴走することもない。
 あの春の未明の夜のことを思い出す。
 もしシェリルが精霊の力を借りて術を使っている最中に、彼が兵士に殺されるようなことがあれば、彼女の使役していた精霊は、再び復讐と破壊の為に、牙を向くだろう。シェリルのありったけの血と命を糧に。そして今度こそ、誰もそれを止めることができない。地上が、怒り狂った精霊に蹂躙されるがままになる。
 だから彼は死ねない。
 いつ死んでもいいと思うことで、今まで生き続けてきた彼にとって、それは恐怖だった。あの夜から、シェリルが身を寄せてくるたびに、爪先から、腹の奥から、心の底から押し寄せる、暗い津波。
 だが賢い彼女は、この場で奥義を使う危険より、幻術を使う賭けを選んだ。
 彼にできることは、シェリルのはったりに合わせることと、万が一脅しが通じずに、彼らが襲ってきた場合、一人でも多くの兵を倒せるよう、身構えることだけだった。一斉に襲われれば、彼の腕では勝てる見込みは少ない。切り刻まれるだけだ。しかし背後にシェリルがいる以上、一人で逃げるわけにも諦めるわけにもいかない。一縷の望みに縋って、抵抗するしかない。
 あの隊長がどの命令を下すか。降参か特攻か。固唾を飲み、無表情を保ってそれを待った。

 突然出現し、宙で燃え盛る炎に驚きを隠せなかった隊長も、やがてやや平静を取り戻し始めたようだ。唖然とした表情が徐々に色を取り戻していく。
 混乱され過ぎても困るが、あまり冷静になられても、幻術が見破られるおそれがある。シェリルは高々と差し上げた手の上の、幻の炎をさらに大きく膨らませてみせた。ぼうという轟音と共に、もはや天井に届くほどに巨大化した火球を見て、兵士の一人が息を呑む。
「早く剣を捨てろ。殺したくない」
 焦りを見せないよう、ゆっくりと震えないように、シェリルはもう一度兵士たちに告げた。
 隊長が口を開くまでは一瞬だったが、無限と思えるほど長く感じられた。
「わかった。剣を捨てりゃ、その魔法も引っ込めてくれるんだな?」
 隊長の軟化した声を聞いて、膝が崩れそうになるのをこらえた。まだ気を抜いてはいけない。
「全員、剣も短剣も床に捨てて、反対側の壁際まで下がりな」
「わかった、わかった。言うとおりにする。──剣を捨てろ」
 隊長が部下たちにそう命じると、彼らはどこか安心したように、即座に剣を床に投げ捨て、腰の鞘に納められた短剣も躊躇無く捨てた。
 その様子を見ながら、シェリルは迷った。幻術を解き、眠りの術など心理を操る術で、彼らの動きを抑えられるだろうか。全員にいちどきに術をかけるのは無理だろうが、あの隊長さえ封じれば、兵士たちの動きは統制が取れなくなるだろう。
 しかし新たな術を使うには、一度幻術を解くか、もう一度集中して、その場に固定させなければならない。その後改めて眠りの術の為に、集中しなければならないのだが、それだけの時間、いつまで彼らに脅しが通用するか。
「そこの男」
 シェリルが逡巡していると、コヨーテが口を開いた。彼は顎で、壁際に下がった兵士たちの内、隊長に最も近い男を差した。
「ベルトを抜いて、隊長さんの手首を後ろで縛れ」
 哀れな兵士は打たれたように顔を上げ、隣の隊長の顔を窺った。隊長は憮然としたが、やがて頷く。
「……仕方ない。言われた通りにしろ」
 悔しそうに自分のベルトを抜き、兵士は両手を後ろに回した上官の手首を縛り始めた。彼に余裕を滲ませたコヨーテの声がかかる。
「横を向いて、俺に見えるように縛れ」
 コヨーテは兵士がしっかりとベルトで、隊長の手首を後ろ手に縛り上げたのを確認すると、全ての兵に同じことをしろと告げた。彼の背中の後ろで、兵士たちに見えないように、シェリルは深く息をついた。術を使わなくても、彼らの動きを封じることができた。この状況にあっても、コヨーテの判断は冷静だ。
 最初の兵士が全員の手首を、各々のベルトで縛り上げると、コヨーテはシェリルを背中で押すようにして、さらに後ろに下がった。壁際に背中が当たったシェリルは、やや首をねじり、そこが鎧戸のはまった窓であることに気づいた。反対側にある入り口の扉を除けば、唯一の出口だ。
 計算していたのだ。    
 コヨーテは無闇に抵抗していたのではない。後退しながら、出口に近づくようにしていた。部屋の入り口の扉は、建物の廊下に通じている。他の兵たちが休んでいるだろう、兵舎の中に逃げ込むのは、得策ではない。建物の外に通じている窓こそ、最も安全な脱出口と言える。
「窓を開けて」
 前を向いたままのコヨーテの言に従い、シェリルは幻の炎を保ったまま、鎧戸の掛け金を外して、窓を開いた。
 緩い風と共に、雨粒が吹き込んでくる。
 やはり幻術にしておいて正解だった。窓を開けるくらいの作業なら、術を解かずにできる。尋常でない集中力を必要とする奥義を使っていたなら、こんなこともできはしない。
「お前、後ろ向きにこっちに歩いてこい。両手を頭の後ろで組むんだ」
 コヨーテは、仲間の兵士全員を縛り上げて、唯一手足が動かせる兵士に呼びかけた。
 彼は隊長を振り向いたが、隊長が頷くと、頭の後ろで手を組み、覚束ない足取りで、シェリルたちの方に背を向けたまま近づいてくる。
「僕が先に出るから、君はもう少しここでねばってて」
「分かった」
 僅かに首をシェリルの方に傾けたコヨーテの呟きが聞こえた。彼女も小声で返事を返す。全身が緊張した。
 こういった要塞型の建物にしては大きな窓だが、それでも高さはシェリルの肩ぐらいの位置にある。大きさは人間の胴体が出入りできるくらいだ。確かにシェリルでは脱出に少々手間取るだろう。彼が先に出て、外からシェリルの脱出の手助けをした方が、効率がいい。
 後ろ向きに歩いてくる兵士が目の前まで来ると、コヨーテは止まれと声を上げた。兵士は従順に足を止める。
「膝をつけ」
 押し殺したコヨーテの声を聞き、兵士は頭の後ろで手を組んだまま、膝を落とした。次の瞬間、握ったままの短剣の柄で、コヨーテは兵士の後頭部を強打した。兵士の呻きがあがる。
 もう一度。二度後頭部を打たれ、呻いてくず折れる男を尻目に、彼は素早く身を翻し、シェリルを押しのけて窓から身を躍らせる。反対側の壁際まで下がっていた、縛られた兵士たちが、一斉に腰を上げた。
「動くな!」
 幻の炎を保ったまま、シェリルは再び声を張り上げる。踏み出しかけた彼らは足を止めたが、男たちが隙を窺う視線が彼女に突き刺さった。今までは前にいたコヨーテが盾になり、この敵意のこもった視線を受け止めていたのだ。彼らの視線だけで気圧されそうになるのを、必死に己を奮い立たせてこらえる。動揺を見せたら終わりだ。脅しが通じなくなる。
 先に窓から出たコヨーテはどうしたのだろう。外からシェリルの脱出を助けてくれるはずだが、何の合図も声もない。
 まさか一人で逃げてしまったのでは。
 大体彼は、先に出てシェリルを助けてくれるなどと言っただろうか。自分が先に出るから、シェリルに時間を稼げと言っただけで、シェリルを助けてくれるとも、一緒に逃げるとも言われていなかった気がする。
 置いていかれた。

「頭から外出て。早く」
 一瞬の間に様々な思考が駆け抜け、シェリルが恐慌に襲われる寸前、背後からコヨーテの声が聞こえた。
 安堵する間もなく、シェリルは振り向いて窓に取りすがる。その向こうに雨に濡れた彼の顔があった。
 身軽なコヨーテは足から窓の外へ出たが、小柄なシェリルでは、肩の高さにある窓に足をかけるのは無理だ。コヨーテに言われた通り、窓に飛び込むようにして、頭から外に突っ込む。
 コヨーテが殴りつけた兵士は気絶しているようだが、反対側の壁際の兵たちは、手首を縛られていても、足が動く。シェリルが窓から出ようとしているのを見て、こちらに走り寄ってくる足音が、荒々しく聞こえる。
 早く。
 焦るシェリルの両腕を、窓の外からコヨーテが掴み、半ば彼女を引きずり出すようにして、窓の外へと引っ張った。胴が窓をくぐり、脚が抜ける。彼に体を支えられ、どうにか彼女は地面に足を下ろした。全身が冷たい雨に濡れていく。
「待て!」
 部屋の中から兵士の罵声が聞こえた。
「構うな。行くよ」
 思わずそちらを振り返ろうとすると、コヨーテに腕を引かれる。つんのめるようにして、シェリルは彼について駆け出した。建物の中から僅かに届く、炎の明かりが、うっすらと暗い夜の林を照らしている。しかし光が届かない数歩先は、真っ暗だった。無明の闇に向かって、ふたりは走った。

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~ Comment ~

RE: 拍手お返事 >Kさん 

拍手、ありがとうございます!

「ヤツなら見捨てかねねえ…」という焦りのドキドキを恋愛のドキドキと錯覚してしまいそうですね。
ズルイ男です…^^;
恋と信頼というのは必ずしも比例するものではないんですねえ(他人事)

隊長は昔から頭の中身が成長してません…。

あと少し、最後までお付き合いいただけたら幸いです♪

RE: 拍手お返事>5/9にくださったKさん 

コメントありがとうございます!
お返事がすっかり遅くなってしまって、本当に申し訳ございません。
事情により、しばらくログインできませんでした….

「魔女とコヨーテ」を最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
彼が他人に対して、ああして自分の心情を吐露するのは、生まれて初めてのことなんじゃないかと思います。
言葉にすることで、自覚した部分もあるんじゃないでしょうか^^;
面倒な人ですね(笑)
ですが、気に入ってくださって、ありがとうございます。
最後の場面の台詞は、かなり以前から練りこんでいましたので、お言葉嬉しかったです。

「山間の城の物語」は更新が滞っていてすみません。
三章以降、また人物や世界が広がっていきますが、シェリルに触れる機会もある予定です。
更新の再開は少し先になりますが、また機会がありましたら、目を通していただけると嬉しいです。

ありがとうございました!

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