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ココナッツ図書館 夜間書庫

魔女とコヨーテ」
第六話 道の先

第六話: 道の先 20

2009.12.05  *Edit 

 関所の中では、ようやく手首に巻かれたベルトを解かれた兵士たちが、息巻いて口々に逃げ出した巡礼者夫婦を罵っていた。
 結局彼らは互いの縛めを解くことができず、部屋の外に出て、別室で捕らえた女たちを弄んでいた、別の兵士たちを呼びつけた。
「申し訳ございません」
 美しい姉妹たちの肉体に夢中になり、通関室での立ち回りに気づかなかったことで、部屋の外にいた兵たちは、隊長に向かってひたすら恐縮した。苦々しい顔の隊長は、返事もしない。
 室内には喉を切り裂かれて絶命している兵士と、後頭部を打たれて昏倒している兵士が倒れている。熟睡していた、盗賊退治に加わらなかった兵たちも叩き起こされ、関所の中は、上へ下への大騒ぎだ。
 兵士たちが詰めかけた通関室は、彼らの体温と、仲間の死を悼む声で満ちている。窓から吹き込む雨が、さらに床に流れる鮮血を匂い立たせた。
 兵士の一人が恐る恐る、再び隊長に尋ねる。
「逃げた連中は……」
「追え」
 無表情で、隊長は唸るように答えた。
「一人やられてるんだ。領境をこのまま通せるか」
「かしこまりました」
 同僚を一撃で殺された兵士は、内心、復讐に奮い立った。立ち上がりかける兵士に、隊長は冷徹な声で指示を飛ばす。
「奴らはただの旅人じゃない。後ろからしばらく静かに追って、疲れたか、油断したところをケツから狙え。連れて行くのは一班だけでいい」
「はい」
「女は生かしたまま捕らえろ」
 兵士は返答に躊躇した。先ほど室内にいた彼は、あの魔女が生み出した巨大な炎を覚えている。魔女を生け捕りにできるだろうか。彼の心を読んだように、隊長は続けた。
「魔術師なんざ、手足を封じて口を塞いじまえば、何もできん。不意打ちして、動きを封じれば、あとは簡単だ。あの小娘、殺す前に、自分がいかに無力なただの女か、たっぷり思い知らせてやる」
「了解しました。男の方は……」
 不安をまだ滲ませながら問う部下に、隊長は酷薄な笑みを見せた。
「どっちでもいい。だが、できれば生かして連れてこい。デニスの仇だろう。女をやっちまう前に、あのクソガキの手足を目の前で切り落としてやる。芋虫みたいに転がったまま、死ぬまで、自分の女がマワされてるのを見せてやれ」
 兵士は返事を返すと、殺された兵士と親しかった、同じ班の兵を連れ、武装を確認して出発した。


 息が上がって、足がもつれそうになる。
 もう走れない。
 シェリルが呻く寸前に、コヨーテは足を緩めた。
 雨は豪雨というほどでもないが、相変わらず降り続いて、地面を泥に変え、彼らの体を冷たく濡らしていた。外套も湿って纏わりつくばかりで、寒さを防ぐ役には立たない。
 コヨーテが指先に灯した、小さな魔法の明かりを頼りに、手を取り合った彼らは、闇に閉ざされた林を進んだ。もう道など分からない。星も見えないので、方角も定かではない。ただ関所の兵士たちから逃げるので、精一杯だった。
「大丈夫?」
 喉をぜいぜいと鳴らし、荒い息をつくシェリルに、コヨーテが声をかけた。彼も息が乱れている。あまり大丈夫ではなかったが、シェリルはやっと微かに首を縦に振った。
 コヨーテは彼女の手を引いたまま、ゆっくり歩き続けた。関所から夢中で逃げてくる内、何度も腕や足を木の枝や幹にぶつけたので、そこかしこが痛む。
「ねえ……道、分かるの?」
 歩き続ける背中に声をかけた。普通であれば雨音と、泥濘を歩く足音にかき消されるような小さな声しか出なかったが、コヨーテは振り向いて答えた。
「分からない。でも近くに川がある。下流に向かって進めば、多分西へ降りられると思う」
 コヨーテが指先に灯した明かりは、追っ手を警戒しているので、ごく小さなものだ。遠くまでは見渡せない。ということは、彼はこの雨の中、川の流れを聞きつけたのだろうか。彼の耳がいいのは知っているが、感覚が優れているというより、音を聞き分けられるよう、よく訓練されているようだ。優秀な猟犬のようだと思ったが、口には出さなかった。
 歩きながら、シェリルはできるだけ深くゆっくり息をするようにし、呼吸を取り戻していく。
 ここまで順調だったのに、なんて夜だったのだろう。
 夢中で逃げてきたが、盗賊に襲われて、道連れだった巡礼者夫婦と行商は殺されてしまった。三人姉妹は、関所に置き去りだ。どうすることもできなかったとはいえ、胸が痛んだ。
 しかし、それも自分の身が一旦安全になったからだ。他人を哀れむことができるのは、自分が優越感に浸っている時だと、以前にスタンリーが言っていた気がする。その通りだと、自嘲気味に思った。
「あの女の人たち……気の毒だったね」
 そんな呟きが零れるのも、もう彼女たちに会わないで済むと思っているからだ。 
「そう? じゃあ、君、助けに戻る?」
 振り返りもせず答えたコヨーテの声は、ひどく乾いている。
「ううん」
 彼に見えないと知りながら、シェリルは首を振った。助けに行く気が無いから、気の毒だなどと、呑気に彼女たちを哀れんでいられるのだ。
「別にそんなに可哀想でもないと思うよ。あの兵隊たちだって、盗賊じゃないんだから、やることやったら、いきなり殺すってことはしないでしょ。あれだけの美人だし、当分は関所の皆に可愛がってもらえるんじゃない? 彼女らが今までやってきたことと変わらないよ。上のお姉さんなんかは、結構したたかだし、うまく立ち回って、あの隊長の情婦にでも納まるかもね」
 コヨーテの声はところどころ雨音に遮られながら、シェリルの耳に冷たく届く。
 一度寝たはずの女、自分に興味がありそうな女と、十歳にも満たない少女を、彼はさっさと見限った。命がかかっていたので、それを責める気など毛頭無いが、コヨーテの利己的なこと、情の薄いことはシェリル以上だ。そんな彼の性格は知ってはいるが、目の当たりにすると、うそ寒いような気持ちも覚える。
 だがそれでも、関所で彼は彼女を置いていかなかった。
 彼女を一晩差し出せば、明日の朝には安全に関所を通過できた。あるいは彼が先に窓から抜けた時、彼はそのまま一人で逃げることもできたのに、そうしなかった。
 盗賊たちに襲撃されて、三姉妹を置いていこうとした時、コヨーテは「金ももらっていないのに、何故彼女たちの為に危険を冒すのか」と言った。
 ではシェリルの為に彼が危険を冒すのは、金の為だろうか。以前喧嘩した時、彼が口にした「報酬まで貰っているのに、君を置いていけない」という言葉の通り、シェリルが高価な耳飾りを彼にあげたから、だからコヨーテはシェリルを見捨てずに助けてくれているのだろうか。
 そうではないことは分かる。分かっていないかもしれないが、少なくとも耳飾りだけが理由ではない。握られた手から、それは今も伝わってくる。
 シェリルはつないだ手に力を込めた。温かく力強く、握り返される。

 コヨーテが静かに足を止めた。
 何かの気配を感じたのだろう。シェリルは声をあげたりせず、ただ彼が何か言うのを待った。雨が木の葉や土を打つ音が耳に響いた。
 振り返ったコヨーテの顔が近づく。
「しゃがんで」
 囁きと共に頭を下へ押された。シェリルは逆らわずに膝をついて姿勢を低くした。コヨーテが、明かりのついた人差し指を拳に握り込むと、あたりは暗闇に包まれる。
 何かにかられ、シェリルは背後を振り向いた。少し離れた場所で、ちらちらと踊る明かりが見える。関所からの追っ手だ。
 あるいは別の盗賊かもしれないが、雨の夜中に山中をうろついているのは、まっとうな旅人ではない。関わらないに越したことはない。
「もう少し頑張って」
 彼は屈んだままシェリルの手を引いた。
 しくじったと彼は思った。こちらの明かりを消すのが少し遅かった。追っ手は意外に近くまで迫ってきている。彼にしてもシェリルにしても、術を使う為に集中していれば、追いつかれてしまうかもしれない。
 彼は川に向かうのを一度諦め、大きく横に逸れて進んだ。だが、星や月の明かりもない、真闇に包まれた夜の下では、夜目に慣れた彼でも視界が効かない。おまけに屈んだままでは、潅木に遮られて進みにくい上、枝葉を押し退ける音が派手にする。
 彼は背後を振り返った。喘ぎながら懸命についてくるシェリルと、さらに距離が詰まったように見える松明の明かりが見える。
 ぬかるみを踏む音や、がさがさと枝を掻き分ける音が、背後の兵たちに聞こえているのかもしれない。明かりを消し、方向を逸らしたというのに、複数の松明はこちらに向かってくる。
 何か手立てを考えなければ、追いつかれる。知恵を絞りながら、彼は走り続けた。
 やがて潅木が疎らになってくる。
 彼は思い切って拳を開き、指先に灯した明かりで周囲を確かめた。
 近くに木こりでも住んでいるのか、この辺りの潅木が切り払われている。
「走って!」
 彼はシェリルの手を強く引いた。ここで距離を稼いで、前方の潅木の茂みに紛れ、連中をやり過ごせるかもしれない。
 コヨーテに引っ張られたシェリルも、最後の力を振り絞り、懸命に走り出した。コヨーテは背後を振り返って警戒しながら、シェリルの背を押しやって、彼女の後ろについた。彼に追い立てられるように、シェリルも走り出す。
 彼女の荒い息遣いと、雨音、靴がぬかるみを叩く音の間から、追いかけてくる男たちが叫ぶ声を聞いた気がする。幻聴だろうか。喉がひりひり痛み、肺が冷えて、考える余裕もない。とにかく今は、前に見える潅木が群生する場所まで走るのだ。
 その前方を照らしている、コヨーテが灯した光の輪が、動かない。さっきまで、シェリルと同じく全力疾走する彼の動きに合わせ、闇に広がる光も小刻みに動いていた。
 氷の手に心臓を握り潰されたような予感を覚える。何か考える前に、シェリルは振り向いた。さっきまで、すぐ後ろに続いていたはずのコヨーテの姿が無かった。
 視線を後戻りさせる。泥と化した大地に、うつ伏せに倒れる男の姿があった。

 一瞬の躊躇も無く、シェリルは駆け戻った。
 彼女がコヨーテの元に辿り着いた時、彼は両手と両足をつき、立ち上がろうとしていた。動く彼を見て、まだ生きているのだと安堵する。
 しかし、彼の左肩に突き刺さった太矢を見つけて、再びシェリルは冷水を浴びせられたような気になった。
 少し離れたところで見える松明は、いくつかはこちらに近寄ってきているが、その場に留まっているものもある。向こうから弩を放ってきたのだ。指先に明かりを灯していたコヨーテは、格好の標的になっただろう。彼がシェリルを前に押しやらなければ、太矢に貫かれていたのは、シェリルだったはずだ。
「コヨーテ……」
 大丈夫とも聞けなかった。彼の腕に手を添えて、立ち上がることを手伝うことしかできない。シェリルの手を借りて、どうにか立った彼は、背後に目を向けた。同時に野太い声が聞こえる。
「いたな!」
「極悪人が。覚悟しろ」
 兵士が二人、松明を手に走り寄ってきた。もうはっきり彼らの姿が見える。
「逃げないと……」
 焦ったシェリルがコヨーテの腕を引くと、彼の体が僅かに傾いだ。乱暴に腕を振り払われる。
「邪魔だよ! 先行って」
 彼には珍しい、荒れた声が飛び出した。コヨーテは左肩に矢を突き立てたまま、腰の長剣を抜く。
「食い止めるなんて、無理だよ。まだ他にも……」
「うるさい。先行ってよ」
 浮き足立ちながらシェリルが言っても、彼は振り返りもしなかった。
 相手は二人だ。後ろから弩を打っていた兵も追いついてくるかもしれない。怪我を負ったコヨーテ一人で防ぎきれるものではない。だが剣に覚えのないシェリルがいても、足手まといになるだけだ。彼女だけでも、一度この場から離れた方がいいのか。
 逡巡しているごく短い間に、兵たちが追いついてくる。
 一人は剣を振りかぶってコヨーテに襲い掛かる。もう一人は彼ではなく、シェリルに向かってきた。 
 術を使う暇はない。訓練された兵に対して、素人に近いシェリルが短剣一本で敵うはずはない。
 しかし投降したところで、兵士を一人殺した彼らの末路は見えている。関所に引きずり戻され、シェリルは陵辱され、コヨーテは拷問を受けた後、ふたりとも惨殺されるだろう。かつての仲間たちの死に様が、視界の奥にちらついた。投降しても無駄だ。この距離では逃げてもすぐに捕まる。
 だが黙って死ねない。
 湿った外套を背中にはねのけ、彼女は短剣を抜いた。

 振り下ろされた兵士の剣を、彼は長剣で受け流した。矢が突き刺さった左肩に激痛が走り、膝が軋む。雨の中を走り続けてきたのは兵士も同じだ。向こうも息を乱しているが、負傷している彼の方が消耗が大きい。
 剣戟が続いて体力勝負になれば、敗北は目に見えている。
 命など惜しくはないが、こんな山奥の一兵卒に簡単にくれてやるほど、安いものでもない。シェリルの目の前で、無様に切り殺されるのも、みっともない。だから先に行けと言ったのに。
 それに彼が死ねば、隣にいる彼女も悲惨な運命を辿る。慈悲深く、兵士に一撃で殺されればいいが、そうでない場合、シェリルを待つのは死に勝る屈辱だ。いまだ彼しか男を知らない、無垢に近い娘には酷だろう。シェリルがあの三姉妹の長女のように、関所の隊長の情婦となって生き延びるなど、想像もつかない。彼女はそんなに強くない。潔癖で誇り高く、怒れば泣きながら物を投げるような、どうしようもなく弱い娘なのだ。
 再び叩きつけられた刃を受け、渾身の力で弾き返す。腕力は相手の方が上だ。追い詰められていると彼は感じた。

 せめてコヨーテが一人を相手にしている間、こちらのもう一人をひきつけておかなければ。
 短剣を構えながら、シェリルは後ずさりした。兵士は彼女の構えから、その実力を読んだのか、表情を緩ませる。男の持つ剣の切っ先が僅かに下がった。
「降参しろ」
 男の勧告を、シェリルは全く無視した。兵士は唇を歪めると、抜いた剣を彼女の肩めがけて突き出す。加減されたその動きは鋭くはなかった。だが突きを予期していなかったシェリルは、避けた際に大きく体勢を崩す。
 彼女が足を縺れさせる前に、突然、横手から振り下ろされた剣が、兵士の左上腕に食い込んだ。悲鳴をあげて彼は飛び退く。
 コヨーテだ。
 彼が戦っていた兵士は、既に濡れた大地に突っ伏している。どうにか一人を始末したらしい。
 不意を討たれた、シェリルと向かい合っていた兵士は、それでもすぐにコヨーテに向かって構え直した。すかさずコヨーテも、再度剣を振り上げる。兵士はそれを受け止めた。
 彼らは何度か上下に剣を合わせた。どちらも怪我をしているが、コヨーテの方は完全に息が上がっている。
 シェリル自身も荒い息を吐きながら、立ち回りを演じる兵士の背後に回った。
 背中は駄目だ。鎧を着ている。彼女は素早く腰を屈め、兵士の右の太腿に、ありったけの力を込めて、短剣を突き刺した。
 短い悲鳴と共に、兵士の膝が崩れる。コヨーテは当然それを逃さなかった。
 膝をついた兵士の首筋に、上から振り下ろされた刃が食い込む。切れ味の悪い安物では、一度では男の首を裂けなかった。兵士の最後の反撃を避け、コヨーテはもう一度、剣を振り下ろす。刃の鋭さというより、重みで兵士の皮膚が裂け、鮮血がほとばしった。

 兵士が絶命すると同時に、コヨーテも両膝を泥の中に埋める。彼ににじりよったシェリルは、どうにか支えようとしたが、彼は上体を折った。体を大地に埋める寸前で、コヨーテは両手をついたが、肘が崩れてそのまま地面に倒れこむ。
 彼を助け起こそうとし、声をかけようとしたが、息が上がっているシェリルも声が出ない。コヨーテも同様のようだった。肩で息をつき、こんなに余裕が無い彼を見たのは初めてだ。
 兵士たちとの剣戟はごく僅かな時間だったが、潅木の向こうに見える松明は、距離を詰めてきている。
「怪我はない?」
 苦しい息の中、コヨーテを抱き起こしながら、シェリルはやっと声を絞り出した。
「矢傷だけ……。最初の奴は、たまたま足払いに引っかかったんだ」
 コヨーテも掠れた声で答える。縋るようにシェリルの腕を掴んでいた彼が、もう一度緊迫した声をあげた。
「伏せて」
 思わずシェリルは彼の肩を抱えたまま、姿勢を低くする。雨音に混じって、空気を裂く音を聞いた。弓矢が空を切る音だ。動かない松明を持っている兵士たちは、その場から弩を放ってきているに違いない。
 シェリルはとりあえず、明かりのついたコヨーテの手を握り、魔術の光を隠した。辺りに再び暗闇が落ちる。これで飛び道具への目印になることだけは、避けられる。
「いいよ、そんなことしなくて。……君は先に行って」
 闇の中で、温かい手に肩を押される。
「無理。あたしだって、もう走れないよ」
「走れなきゃ、歩けば」
「いやだ。一緒に来て」
 命がかかっていると知っていても、彼と一緒でなければ、立ち上がる気力も沸いてこなかった。大きな溜め息が、彼女の首筋にかかった。荒い息の隙間から、掠れたままの声が漏れる。
「ごめん。……悪いけど……ちょっと立てない」
 シェリルより激しく立ち回ったであろう彼は、体力の限界なのだろう。おまけに出血が少ないとはいえ、彼は矢傷を負っている。放っておけば、傷口が化膿してしまう。
「やだ。一緒じゃなきゃ、どこにも行かない」
 頼ってきた男の弱々しい声を聞いて、シェリルの瞳が潤んだ。泣いている場合ではない。彼が何もできないなら、自分でどうにかしなければならない。でも、もう彼女も体力は限界を超えている。
 涙に霞む視界の中で、松明の明かりが徐々に大きくなってきていた。絶望に引き込まれまいと、最後の気力を張るシェリルを、降り続く雨が容赦なく濡らしていく。 

 抱えていたコヨーテの肩から両手を離す。彼の体温が滑り落ちた。
 シェリルもまた暗闇の中で、地面に伏せる。顔も体も冷たい泥にまみれた。少しでも姿勢を低くして、弩に当たる可能性を減らさなければならない。今、彼女に盾はない。
 仕方がない。
 こんなところで死ぬ為に、今まで苦しい思いをしてきたわけではない。あの娼館で過ごした春の夜、コヨーテのこの上ない幸せな申し出を断ったのは、こんな死に方をするためではなかった。いずれ運命の手がシェリルの命を摘み取るとしても、それは今ではない。こんなところで死ねない。
 泥の中で横たわり、コヨーテの腕を掴んだまま、彼女は集中した。
 雨。そして近くにあるという川。その主へ呼びかける。


 松明を手にした三人の兵士たちは、慎重な足取りで進んでいた。追いかけている巡礼たちは、急に明かりを消した。どこからか、不意討ちを狙っているかもしれない。前方で剣戟の音がした後、先行した二人の声も聞こえない。もしや、やられてしまったのか。
「気をつけろ」
 この班の長である兵士は、隣の兵に囁いた。無言で頷くだけだろうと思った彼が、喉からごぼりと奇妙な音をほとばしらせた。
 驚いて彼の様子を伺った班長は、松明を取り落としそうになるほど驚倒した。
 彼の隣を警戒しながら歩いているはずだった兵士は、既に剣も松明も地面に投げ捨て、両手で喉を押さえている。目を血走らせ、頬は嘔吐寸前のように膨らんでいる。げえっという音と共に、彼の口から吹き出したのは、吐瀉物ではなく、透明な液体だった。
「大丈夫か?」
「どうした」
 班長ともう一人の兵士は、喉を押えてのた打ち回る兵に声をかけたが、兵士は苦しげな音を溢れさせるだけで、答える様子もない。その口からだらしなく液体が溢れ続ける。
 水だと班長は直感した。しかしこんな大量の水を、いきなり吐き出す現象があるだろうか。
「おい!」
 もう一人の兵は、ついに地面に倒れこんだ同僚を助け起こそうとしている。だが泥にまみれて、体をのたうたせていた兵士の体から、やがて力が抜ける。呼吸もできず、苦しげに痙攣を起こす兵士の口から、だらだらと水が溢れ出していた。
「なんですか、これ。まるで、溺れたみたいだ……!」
 異様な仲間の死を目の当たりにした兵が、恐慌じみた声をあげた。
 地上にいながら溺れる。そんなことがあるはずない。しかし班長は全身が総毛立つのを覚えた。
 何も無いところから火を呼べる魔女なら、人間の肺を水で満たすことなど、造作もなくやってのけるのではないか。    
 彼は魔女とその連れが走り去ったはずの前方を見た。松明の火が届かない向こうは、一面の暗闇だ。  
 恐怖に凍る班長の足元で、仲間の死を嘆いていたもう一人の兵士が、死んだ同僚と同じように、喉を押えながら、苦しげな声を漏らしているのが見えた。彼の唇から、水が滴っている。
 班長は部下を助けることも忘れ、後ずさった。魔女はやはり、たかだか一隊の兵士の手に負えるものではなかったのだ。
 踵を返した彼は、降り続く雨の中、轟音を聞いた気がした。気のせいではない。どうどうという音は止むどころか、徐々に大きくなっている。いや、近づいている。
 松明の頼りない明かりの中に、班長は渦巻いて迫りくる、巨大な水流を見た。
 鉄砲水だ。しかし近くの小川が氾濫するほどの降りでもないのに、何故。
 疑問と共に、彼は轟音を立てて牙をむいた、水の獣に飲み込まれた。


 体を沈めた大地が、僅かに鳴動している。濁流の音が聞こえてくる。昏倒寸前のコヨーテも、敏感にそれを感じたようだった。
「シェリル……川が氾濫してる。逃げないと」
 まだ集中を完全に解いていないシェリルは、目を閉じたまま首を振って、呟くように答えた。
「大丈夫。じっとしてて」
 彼はこの場にそぐわない、熱に浮かされたような声を聞き、そっとシェリルの手を振り払って、魔法の明かりを灯した指先を開いた。小さな明かりの中で、目を瞑ったままのシェリルの顔が見える。
 彼女の術だと彼は気づいた。自ら封じていた奥義──精霊の力を借りる高度な魔術を、この危機を脱する為に、シェリルが使ったのだ。炎ではなく、水の精霊に呼びかけたのだろう。
「分かった」
 不安を残しながらも、彼は頷いた。このままでは濁流に飲み込まれる。いくらシェリルの魔術と言えども、危険が全く無いとは信じられない。だが、動けないのでは、この場はシェリルに任せるしかなかった。
 シェリルは目を閉じ、小川の精霊に念じ続けながら、盲人のように、コヨーテの方にゆっくり両手を伸ばした。温かい体に突き当たると、彼の体の輪郭をなぞるように、手を上へと滑らせた。
 彼女は水の精霊に同調して、近づいてきていた兵士たちの脅威を排除するよう念じた。降り続く雨で荒ぶる精霊の力は増大し、兵士を地上で溺れさせただけでは足らずに、水流を呼び込もうとしている。既に精霊と同調しているシェリルには、それを留めることはできなかった。それでも自分と、コヨーテの身を守らなければならないという意識は残っている。 
 右手が、濡れた彼の髪に触れた。
 シェリルは安堵して、コヨーテの頭を抱き寄せた。彼が、最大の悲劇に見舞われたシェリルを支えていてくれた頃、夜ごとそうして眠ってくれたように。
「つかまってて。大丈夫」
 囁くと、腕の中の頭が僅かに縦に動き、彼女の背中に腕が回るのを感じた。
「ありがとう」
 コヨーテの顔が押し付けられた鎖骨を伝って、微かな声が響いてきた。
 無責任で信用できず、頼りないと思っていたコヨーテに、結局彼女は頼っていた。
 彼の頭はこんなに小さかったのだろうか。集中を乱さない程度に、それでも精一杯の力で、彼を包み込むように抱き締めた。
 水流の轟音が耳を揺らす。そう思った瞬間、ふたりは濁流にさらわれた。

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~ Comment ~

re: 拍手お返事 >Kさん 

拍手&読了、ありがとうございます!

コヨーテ君、今回余裕無かったですねえ…おもらしした時より(笑)

人差し指怪我しただけでも、キーボード打つのにヒーヒー言ってる身としては、矢傷負って戦いに勝つって、スゴイことに思えます。
…一人だったら、迷わず逃げたんでしょうけど^^;

姉妹たちは、そうですねえ…おっしゃる通り、しばらく隊長の物で、飽きたら共有…扱いでしょうねえ。
確かに隊長は、初物(笑)か、自分の警戒心を刺激するような女性が好きなので、姉妹の誰にも、すぐに飽きそうですね。

その後の関所では、男性向け鬼畜オトナ世界が繰り広げられていると思われます(笑)
裏外伝(なんじゃ、そりゃ)で、書いてみたくなるようなシチュエーションですねえ~。
コヨーテには「頭が悪い」ってぶったぎられているし、お姉さん、頑張って生きてきたのに可哀相ですね(他人事)
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